【東京五輪女子ロード詳報】単騎出場のキーゼンホファーが自転車大国オランダに勝利

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東京2020オリンピック女子ロードレースには、すべての優勝予想を覆す波乱の展開が待ち受けていた。厳しい暑さに見舞われた137kmのレースを制したのは、数学者としての顔をもつ異色の30歳、オーストリア代表のアナ・キーゼンホファー。名だたる優勝候補の追撃を許さず、運をも味方につけて、スタートからフィニッシュまで逃げ切る快進撃をみせ、オーストリア待望の2004年アテネ五輪以来となる夏季五輪での金メダルを獲得した。

Tokyo 2020 Olympic Games東京五輪女子ロードレース

photo Patrick Pichon/BettiniPhotoゥ2021

 

レースを決めた三つの要素

7月25日午後1時、気温は33℃まで上り、強い日差しが刺すように照りつけるなか、40ヶ国から集まった67人の選手が観客のいない武蔵野の森公園から静かにスタートを切った。女子ロードレースも男子と同じように国道413号道志みちを経由して富士スピードウェイでフィニッシュする。しかし、距離が137kmと男子と比べ100kmほど短く、さらには男子では中盤以降に組み込まれた富士山麓と三国峠、2つの破壊力の大きい上り区間がゴソっとコースから取り除かれたため、性質の異なるコースプロフィールとなった。

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武蔵野の森をスタートしていく集団 - photo Luca Bettini/BettiniPhotoゥ2021

男子は山岳に大きな比重が置かれたが、女子の場合は最後の籠坂峠からフィニッシュまで約40kmと長いこと、さらにその籠坂峠も頂上まで2.4km、平均勾配5.2%とクライマーが決定的なリードを奪うには物足りない。むしろ富士スピードウェイまで勝負が持ち越された場合には、独走力やスプリント力が求められるレイアウトだ。

いったいどのようなレースになるのか? さまざまな展開が推測されたものの、事実は小説よりも奇なり。世界最強チーム、過小評価、ミスコミニュケーション、これらが巧みに絡み合い、誰もが予想していなかった勝者を生み、ドラマチックなフィナーレを迎えることになる。

 

「世界最強チーム」オランダ、それゆえの苦悩

「ロードレースはチーム戦。強いチームをもつ選手が強い」。そんなロードレースのセオリーをこれまで何度聞いてきただろうか? もちろん選手個々の力があってこその話だが、優勝候補を占うならば、当然チームとしての戦力も重要なポイントとなる。つまり今大会の絶対的優勝候補とされたオランダは、世界ランキング1位、2位、4位、5位の選手で構成されており、“勝てる”選手しかいない。昨今の女子ロードレース界を担う中心メンバーによって鉄壁のドリームチームを編成し、ロンドン、リオに続く大会三連覇をかけて遠く離れた日本へと乗り込んだ。

日本の酷暑対策として、オランダはニュートラル区間に凍らせたアイスベストを着用した。ライバルチームが首元に氷を入れたり、頭から水をかぶるのを横目に、ジワリと格の違いをアピール。さらには脱いだ4人分のアイスベストをチームカーに運んだのは、ロードレース種目だけで通算235勝、シクロクロスなど他種目と合わせてこれまでに13度世界チャンピオンに輝くマリアンヌ・フォス。女王フォスがアシストとしての仕事もこなすオランダは、リオ五輪金メダリストであり現世界チャンピオンのアナ・ファンデルブレヘンを筆頭に、2018年、19年ジロローザを連覇したアネミーク・ファンフレーテン、そしてファンデルブレヘンの元で急成長を遂げ、プロ1年目にしてリエージュ〜バストーニュ〜リエージュを制した新星デミ・フォレリングと強烈な顔ぶれがそろう。

 

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オランダチームはアイスベストを着用し、万全の暑さ対策 – photo Luca Bettini/BettiniPhotoゥ2021

 

他のチームの戦略は「いかにしてオランダからチャンスを奪うか」その一点に尽きる。オランダの対抗馬として有力視されたのが、エリザ・ロンゴボルギーニ(イタリア)、リサ・ブレナウアー(ドイツ)、クロエ・ダイガート(アメリカ)、ロッタ・コペッキー(ベルギー)、アシュリー・モールマン(南アフリカ)、エリザベス・ダイグナン(イギリス)、カタジナ・ニエウィアドマ(ポーランド)といった女子ロードレース界のスーパースターたち。しかし、どの選手もオランダに勝る強力なチームの後ろ盾はなく、また1対1の真っ向勝負になったとしても、勝率は決して高いとは言えない。

 

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エリザベス・ダイグナン(イギリス・写真右)BettiniPhoto©2021

 

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カタジナ・ニエウィアドマ(ポーランド) – photo Patrick Pichon/BettiniPhotoゥ2021

 

スタート直後にアナ・キーゼンホファー(オーストリア)がアタックを仕掛け、彼女に追随する形で、アンナ・プリフタ(ポーランド)、カルラ・オベルホルツァー(南アフリカ)、ヴェラ・ルーザー(ナミビア)、オメル・シャピーラ(イスラエル)が先行。5選手の先頭集団が形成され、道志みちに入ると、オランダがいるメイン集団とのタイム差は10分以上に広がっていった。途中、オランダ以外の選手が追走を図る動きもあったが、ブリッジに成功する選手はおらず、逆に先頭からはルーザーとオベルホルツァーが脱落して、先頭3人。

しかし、圧倒的な力をもってしても、ロードレースで勝つことは簡単ではない。オランダチームが群を抜いて強いと考えられていたため、レースはオランダ対その他すべての国という勢力図となった。いくら強くても女子は1チーム最大で4選手のみの出走のため、集団牽引など組織的なチームプレーが難しく、逃げとのタイム差が広がりすぎると追い切れない危険が出てくる。それゆえ、タイム差には十分な注意が必要となるが、どのチームもみなオランダが動くのを待ってなかなか動かない。オランダもその雰囲気を察して、集団の後方に下がってしまう。利用するか、利用されるか、ロードレース特有の駆け引きが生まれ、集団のペースはなかなか上がらない。反面逃げている3選手は淡々とペースを刻んで有利な展開が続く。

 

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ドイツやオーストラリア勢が集団をリードする場面も見られたが、決定的な動きにはならず BettiniPhoto©2021

 

すると、集団後方でアネミーク・ファンフレーテンが落車に巻き込まれるトラブルが発生した。残り66km地点、これから道志みちのピークとなる山伏峠に向けて徐々に上り始めるというタイミングだったが、幸い大事には至らず集団復帰。そしてファンフレーテンの集団復帰を皮切りに、ついにオランダが攻撃を開始。オランダが次から次へと強烈なアタックを仕掛けてタイム差を縮めるとともに、メイン集団の振るい落としを図る。集団は活性化され、他国を含めアタックが頻発するなかで、残り50kmを前にした登坂区間でファンフレーテンが抜け出しに成功し、単独で追走。ようやく絶対的優勝候補のオランダが牙を剥く。

 

誤算を生んだ勝者への「過小評価」

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BettiniPhoto©2021

結果的に勝者となるアナ・キーゼンホファーはトライアスロンやデュアスロン出身の選手で、ケガにより自転車に転向した経歴をもつ。タイムトライアルを得意とし、2017年にロット・スーダルに所属したが、結果を残すことができず1年限りの契約となり、翌年は競技から離れてしまう。その後、アマチュア選手として活動を再開させ、2019年からオーストリア選手権個人タイムトライアルで3連覇中、ナショナルチームのメンバーとして世界選手権などに出場し、今回30歳にして初めて、唯一のオーストリア代表として五輪の舞台に立った。

またウィーン工科大学で数学を学び、ケンブリッジ大学で修士号、カタルーニャ工科大学で博士号を取得。現在はローザンヌ工科大学で“数理物理学で生じる非線形偏微分方程式”を研究する博士研究員という並外れた肩書きをもつ。彼女のSNSには、東京の酷暑に対応すべく、深部体温を独自に研究していたことが残されており、研究者としての顔が伺える。

昨今、女子ロードレース界の競技レベルは上がってきているが、男子と比べると選手層はまだまだ浅い。今大会で優勝候補として名前があがる選手たちは皆、世界のトップレースでいつも競い合い、トレードチームではチームメートとして一緒に戦う相手も多く、お互いの長所短所を知り尽くしている関係があったが、プロのプロトンに属さないキーゼンホファーの実力を知る選手は限られていた。

そのためキーゼンホファーが強烈なスタートアタックを成功させたにも関わらず、5人の先頭集団のなかでメイン集団が注視したのは、強豪チームに所属するアンナ・プリフタ(ポーランド)とオメル・シャピーラ(イスラエル)の二人。キーゼンホファーはオーストリアから単騎での参戦、スタートからのアタックは捨て身の作戦のようにも思われたが、彼女は五輪に向けて1年以上も前からビッグネームたちに勝負を挑む準備を水面下で重ねてきていた。

 

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アンナ・プリフタ(ポーランド)とオメル・シャピーラ(イスラエル)と逃げ続けるキーゼンホファー BettiniPhoto©2021

 

そして残り41km、山中湖を周回し籠坂峠へと差し掛かった3人の先頭集団から、好調さを実感していたキーゼンホファーがペースアップを図り、シャピーラ、プリフタが脱落する展開となった。残り距離がまだまだ長いなかで単独で先頭となったキーゼンホファー、スタートから逃げ続けており、その走りに少しずつ疲労の色も滲む。しかし、集団とのタイム差が残り30kmで5分47秒、残り20kmを切って4分23秒、残り10kmでも4分と縮まり切らず、キーゼンホファーは全身全霊でリードを守るべく、富士スピードウェイの緩やかなアップダウンをこなしていく。過小評価されていた彼女の存在が勝負の後半になりどんどん大きくなっていった。

 

無線禁止による「ミスコミニュケーション」

残り50km、単独で追走を図ったオランダのファンフレーテンだったが、キーゼンホファーの背中を捉えることはできず、残り20kmを前にオルガ・ザベリンスカヤ(ウズベキスタン)やロッタ・コペッキー(ベルギー)らの追い上げにより集団に吸収される。メイン集団は20人ほどの有力選手に絞られており、緊迫したなかで、フランスから唯一の参戦となったジュリエット・ラブスが追走を図るが、勝負に向けて加速するオランダ勢が率いる集団に吸収される。

残り5kmを切って、集団は籠坂峠でキーゼンホファーから遅れを取ったプリフタとシャピーラをようやく吸収した。そして、警戒していた二人をキャッチしたこと、クネクネとカーブが連続するサーキットのなかで2分半以上先行するキーゼンホファーの姿を捉えることができなかった、などの要素から緊張感が高まる最終局面において致命的な大きなミスが生まれた。このときメイン集団にいた多くの選手が、プリフタとシャピーラを先頭だと誤認してしまったのだ。なんとしてでも金メダルが欲しいオランダ勢をはじめ、優勝候補とされる選手たちはキーゼンホファーを捉えないといけなかったが、その存在に気がつかず、12人ほどに絞られた集団内で牽制しながらもアタックを掛け合い、残り1.7kmで再度ファンフレーテンがリードを奪う。勇気ある力強い走りでライバルたちに差をつけ、それにイタリアのロンゴボルギーニが追走した。しかし、サーキットの反対側では、五輪の大舞台でスタートからフィニッシュまで逃げ切るという驚異的、そして奇跡的な走りを見せたキーゼンホファーがフィニッシュラインで両手を大きく掲げた。

 

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富士スピードウェイのホームストレート、フィニッシュラインを独走で駆け抜けたアナ・キーゼンホファー BettiniPhotoゥ2021

 

そしてキーゼンホファーから遅れること1分15秒。観客たちの声援に迎え入れられファンフレーテンが大きな喜びとともフィニッシュラインを越えたが、その喜びは残酷な勘違いを知ることであっという間に消え去ってしまった。現在38歳のファンフレーテン、前回のリオ大会では残り10km地点、単独先頭に立ち、金メダルが目の前に見えていた矢先の下り区間で落車し地面に叩きつけられるようにして大ケガを負った。そこから復活した経緯もあり、今回のオランダチーム内でも、ひときわ金メダルに対する思いが強い。それを体現する積極的な走りが印象的だっただけに、ミスが悔やまれる。「情報を的確に捉えることができていれば、もっと良い結果になった」とファンデルブレヘン。しかし、結果は覆らない。

 

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富士スピードウェイのフィニッシュラインで両手を挙げたファンフレーテンだったが…… – photo Luca Bettini/BettiniPhotoゥ2021

 

ワールドツアーなどのトップレースを主戦場にする選手たちにとって、無線(ラジオ)は必需品だが、現在、五輪での無線使用は禁止されている。選手たちの無線はチームカーに乗りレースに帯同する監督と繋がっており、レース状況やコースプロフィール、警戒すべき選手や作戦についてなど、集団内を走行しながら逐一情報を得ることができる。無線が禁止される場合、主催者が用意するオートバイが掲げるインフォメーションボードかチームカーまで下って監督から情報を得ることになるが、勝負がかかる緊迫した状況下で選手がチームカーを呼んでレース状況を聞くことは不可能だ。

つまり、今回の状況は、最後の局面においてオートバイによる情報通達が十分に行われていなかったことを示唆するが、一部報道によるとメイン集団内でもキーゼンホファーの存在を認識している選手とそうでない選手がいた模様。どんなにオートバイが機能していなくても、レースの大部分は3選手が先行する展開だったため、その認識はすべての選手にあっただろう。しかし、集団が吸収したのはプリフタとシャピーラの2選手のみ。1選手足りないのだ。無線禁止の背景には選手主導のレースを促す狙いがあるが、今回は後味の悪い混乱が残ってしまった。それでも表彰台では銀メダルを胸にしたファンフレーテンが笑顔をみせ、勝者を称えた。たとえ銀色であっても五輪でのメダル獲得は大きな誇りだ。そして何よりもこの日はキーゼンホファーが強かった。はたしてレース状況を正しくオランダが把握していたならば、本当に彼女を捉えることはできただろうか? まったく注目されていなかった選手が優勝するなんてスタート前には誰もが考えていないことだったが、137kmを走り終え、富士スピードウェイの表彰台に立つ彼女の胸元には金メダルが確かに輝いている。3位にはリオ五輪に続いてイタリアのロンゴボルギーニが入った。

 

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photo Luca Bettini/BettiniPhotoゥ2021

 

4年に一度の一発勝負。大きな三つの要素以外にもさまざまな要素が絡み合い、唯一無二のドラマを生み出すロードレース。その醍醐味がふんだんに詰まったレースが、日本の美しいコースを舞台にして繰り広げられた。

 

日本代表、與那嶺恵理と金子広美の闘い

自国開催の東京五輪、日本は出場枠を2枠獲得し、海外のトップチームで6シーズンにわたって活躍をする與那嶺恵理と、2019年の全日本選手権ロードレースで與那嶺に次いで2位でフィニッシュした登坂を得意とする金子広美が日本代表としてスタートラインに立った。

二人は大きなトラブルなくレースを進め、金子がチームカーからの補給を届け、與那嶺はメイン集団内の好位置をキープする。中盤、道志みちの上り区間で集団がペースアップした際も、與那嶺は安定感のある走りで、しっかりとメイン集団に食らいつき終盤の勝負に備える。

そして残り20kmを切り、各国のエース級選手に絞られた20人ほどのメイン集団からアタックが繰り返され集団はペースアップするが、與那嶺はそれにも対応する。残り5km、オランダが脅威的な猛追をみせ、逃げていたプリフタとシャピーラを吸収したタイミングで惜しくも與那嶺はドロップ。そして與那嶺は勝者から2分28秒遅れの21位でフィニッシュラインを通過し、金子も與那嶺のために走りながらも43位、無事に完走を果たす。最終盤まで有力選手とともに競り合う姿をみせた與那嶺は欧州のレースシーンにおける彼女のポジションを今大会でも示し、レースのなかで大きな存在感を発揮した。すべてを出し切って世界と戦った二人は、富士スピードウェイに駆けつけた大勢のファンに温かく迎え入れられ、自国開催の五輪というキャリア最大のビッグレースを笑顔で走り終えた。