旧街道じてんしゃ旅 旧日光道中編 一日目 日本橋〜小山宿(栃木県) 僅かに残る旧街道の標をたどる

目次

サイクルショップ(ストラーダバイシクルズ)とツアーイベント会社(ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画の第四弾「旧日光道中編」。一日目は、日本橋から小山宿へ。

五輪のモニュメント

旧日光道中も日本橋が起点だ。五輪のモニュメントが傍に置かれていた

 

コロナ禍に悩んだ旅立ち。

2019年の8月に始まった旧街道じてんしゃ旅。アラフィフオヤジ二人が、人生のあれやこれやを背負ってワイワイと五街道を走破する、そんなコンセプトのこの旅も、いよいよ大詰めとなってきた。残りの旧日光道中と旧奥州道中を走り切れば、まずは五街道制覇となる。1番目の目標だ。そしてその後の目標も、五街道を制覇した後、今夏には次のチャレンジの旅を始める予定でいた。

しかし2021年夏の時点で、まだ二つの旧街道が残ったままだった。原因はそう、新型コロナウィルスの蔓延である。度重なる緊急事態宣言の発令や、感染症への懸念などから、たびたび出発のチャンスを逸してしまった。

蔓延の状況は一進一退で、何度も出発が見送りになってしまい、旅立ちができないまま、時だけが過ぎていくため、しばらく心の中はヤキモキするばかりだった。さらに世間ではオリンピック・パラリンピックの開催問題が騒がしく、テレビやインターネット上ではネガティブなコメントばかりが目につくようになってきた。謝罪せよ、辞任せよ……誰かを攻撃して溜飲を下げるという状態を見ることにへきえきする日々。動きも取れず、心の中も陰々滅々としてきた頃だった。

そんな時に、やはり相棒も同じように過ごしていたようで、他の仕事の電話をしているついでに勢いで「2週間後、出発してしまいましょうや! 行けますか?」という流れになった。「行きましょ! 行きましょ!」

そうとなれば二人とも行動が早いもので、あっという間に準備を整え、仕事をやりくりし、出発に漕ぎ着けた。多分、二人とも世間の閉塞感から逃れたかったのだろうと思う。いよいよ残りの旧日光道中と旧甲州道中の出発だ。できる限り人との接触を避けるために、早朝6時に日本橋を立つことにした。

「おはようさんですぅ〜!」といつもの調子でシシャチョーが現れた。コロナ禍で人通りがほとんどない日本橋。いまだかつて見たことのない異様な光景だ。さらには早朝だというのに厚い雲が頭上に垂れ込めていて、湿気を含んだ空気が淀んでいる。何だか重苦しい雰囲気の中の出発になった。

まあいろんな旅があるさ。気を取り直していこう。

早朝の日本橋

早朝の日本橋。コロナ禍で人通りがほとんどない。異様な雰囲気だった

 

出発直後に豪雨に見舞われる。

さて、旧日光道中と旧奥州道中は、途中の宇都宮宿までは行程が同じである。もともとの街道は旧奥州道中だったらしく、徳川家康の遺体を日光に祀ってから拓かれたのが旧日光道中である。よって江戸中期以降は旧日光道中が主体で、旧奥州道中は宇都宮宿から白河宿までの区間だけを呼ぶようになったのだという。

以前にも書いたが、徳川の治世の業績として幹線道路の整備があげられる。その中でも旧日光道中は徳川の威光を際立たせるために重要視されたことだろう。旧日光道中には周囲にも日光に通ずる道が敷設された。将軍家が使用する「御成道」や朝廷が詣でるために設けられた「日光例幣使(れいへいし)街道」などがある。その数を見ても日光にまつわる道が重要だったことがうかがわれる。

日本橋を出発してまもなく浅草に入ったところで、突然、前触れもなく豪雨に見舞われた。雨が降るときはポツポツと来て、次第に雨足が強くなっていくのが普通だが、このときは突然バケツの水を被せられたような感じで、重いものが頭に落ちてきたような感覚だった。まさに空の底が抜けたような感じだ。

「うわーっ!」雷門の前で二段階右折のために信号待ちしていたシシャチョーが叫んでいる。こちらも撮影のために取り出していたカメラが一気にずぶ濡れになってしまった。たまらず商店街のアーケードに逃げ込む。

浅草

浅草に入る。二段階右折をしたところで、豪雨に襲われた

東京スカイツリー

暗雲立ち込める。東京スカイツリーも雲に埋もれてしまっていた

 

見どころを探し、さまよう旧日光道中。

ところで、読者はがっかりするかもしれないが、五街道の中でもこの旧日光道中は、その大半が幹線道路となってしまっていて、往時の様子を伺わせるものが非常に少なく退屈になりがちな街道だ。そして幹線道路ゆえにサイクリングではとても走りにくく、周囲の交通に神経過敏になりながら走るため、とても疲れてしまう。先の戦災や経済発展を優先したため、古いものが失われざるを得なかった結果なのだが、旧街道マニアの私としては少し残念に映る街道である。

確かに目を凝らせば、当時の寺社仏閣や遺物もわずかだが残されている。そして、過去は本陣だった、とか有名な高僧が居た、などの立て看板があったりするので、旧街道としての遺物はあるじゃないか!という向きもあるだろう。しかし旧街道じてんしゃ旅はあくまでサイクリングであり、学術踏査の旅ではないので、旧街道の雰囲気を感じられないところはわざわざ目を凝らして調べたりはしない。そういう場所は走り過ぎてしまうのだ。

そんな中でも千住宿の周辺は、歴史の知識があり旧街道の宿場町の成り立ちや道の様子を学んでいれば、十分楽しめるところだと思う。

江戸時代、庶民への見せしめのための処刑場が街道の出口に設けられた。ここでは小塚原の刑場である。江戸時代20万人にも及ぶ人々が処刑された場所だ。同様のものが鈴ヶ森にもあるし、京都では三条河原などが有名だ。罪人とその家族が別れを惜しんだ泪橋などは有名だ。晴れがましいものだけが見どころではない。そこには歴然とした史実が残っている。そうしたことを現場でスマートフォンで、当時のことを即興で調べながら走るのも面白いだろう。

他にも松尾芭蕉が、有名な「奥の細道」の出発地点として選んだのが千住宿だ。ここから相棒の河合曾良(かわい そら)と共にみちのくの地に旅立っていった。そうしたことを思い浮かべながら旧街道を通れば道も違ったものに見えてくるに違いない。また草加宿の松並木は、現代風に整備はされているものの雰囲気は満点で、旧街道らしさを感じさせてくれる貴重な場所だ。

千住大橋

徳川家康は、湿地帯だった江戸を埋め立て土地を作り、東国との境にこの千住大橋を架けさせた

南千住駅の陸橋

泪橋を越え、南千住駅の陸橋を行く。例によって自動車優先の典型的な場所だ

松尾芭蕉の像

松尾芭蕉の像。芭蕉は河合曾良(かわい そら)と共にこの場所から奥の細道に旅立っていった

道標

旧街道らしさが乏しい中、何とか雰囲気を感じさせる道標

千住宿の街並み

千住宿の街並み。宿場町が商店街になった典型的な場所だ

草加宿の松並木

綾瀬川沿いに残されている草加宿の見事な松並木。1.5kmにも及ぶ

草加宿

草加せんべいで有名な草加宿。わずかに宿場風情が残る

本陣跡のモニュメント

本陣跡のモニュメント。都市開発に埋もれゆくのは宿命なのだろう

豪雨で濁った荒川を渡る

豪雨で濁った荒川を渡る。天気が悪いこともあって感動が少ない

粕壁

春日部は、もともとは「粕壁」という表記だった。商店のシャッターに僅かに宿場町の誇りを感じる

 

さて、草加宿を過ぎてからはやはりめぼしいものはなく、少し退屈な走りになった。さらには道は狭く、路側もほぼなく、自転車が走れそうにない区間が続く。車の往来にあおられるばかりで、シシャチョーも私もかなり疲労困ぱいという感じだ。曇り空で気温はそんなに上がらないが、変わりに湿気がひどく、汗が滝のように流れる。たまらずコンビニエンスストアに飛び込んだ。二人とも氷を買って、ボトルやら体やらに突っ込んで涼を得る。もう汗も氷も一緒くたで、ずぶ濡れ。

ふと辺りを見回すと、群馬の方向に大きな積乱雲が見える。上部はジェット気流で吹き飛ばされ、横に流されていて、金床雲(かなとこぐも)と呼ばれる状態になっている。こうなるとその下は豪雨になっている場合が多い。そしてその雲はどうやらこちらに近づいているようだ。

「こら雨が降りそうや! 井上はん、メシにしましょ。そこで雨をしのぎましょうや」とシシャチョー。また雨に降られるのも嫌だし、車にあおられるのもいい加減疲れてきたので、コンビニを出てぶっ飛ばし、杉戸宿(埼玉県北葛飾郡杉戸町)に入ったあたりでうどん屋に入った。

杉戸宿

分厚い雨雲に追いつかれそうになった。杉戸宿で昼食を採りながらやり過ごすことに

 

積乱雲に追い立てられて激走。

昼食を済ませて再び出発。幸手宿を過ぎた辺りでようやく緑が目につくようになってきた。「ここいいですね! ここ走りましょ!」美しい田んぼの風景に思わず私がリクエスト。「おお! 確かにキレイな場所ですな。ほな行きまっせ! あ、あそこにもええ感じの商店がありまっせ!!」シシャチョーにわざわざ遠回りをしてもらい、田んぼと商店でワンショットずつ納める。

何の変哲もない田んぼの風景、いわば「名前のない風景」だが、旧街道じてんしゃ旅ではそれが思い出になることも多々ある。そこには晴れがましい建物、ゆるキャラやインスタ映えするものは存在しないが、旅行ではなく、旅として見るに価値ある風景が存在する。それらを求めて走るのが旧街道じてんしゃ旅の醍醐味だと思う。何を感じるかはそれぞれ個人で違って良いと思う。ただ流行りものや、大衆迎合したものではないような気がする。古い人間なのかもしれないが……。

幸手宿の案内看板

幸手(さって)宿の案内看板。鍵の手などの名残りが、かろうじて宿場町だったことを感じさせる

江戸時代の道標

江戸時代の道標を見つけた。何とか残されている遺物を見つけると安堵する

幸手宿を過ぎたあたりでようやく田園風景に出会えた

幸手宿を過ぎたあたりでようやく田園風景に出会えた。青々とした稲が美しい

昭和を感じさせる商店

昭和を感じさせる商店が目の前に現れた。先回りしてシシャチョーを撮影する

栗橋宿

栗橋宿(埼玉県久喜市)は昔は水運で栄えた宿場町だった。今も利根川の脇にたたずむようにある

利根川

旧日光道中は利根川を越え、しばらく茨城県を走る

利根川

日本最大級の河川、利根川。昔の人は苦労して越えたのだろう

中田宿

利根川の橋を下ると中田宿。かつては美しい松並木があったそうだが、今は失われてしまった

古河宿

雨雲に追われつつ古河宿(茨城県古河市)に入る。行燈型看板で何とか宿場町であることを感じる

鰻屋

鰻屋のたたずまいが美しかった

それでもやはり他の五街道から比べると、見どころは少ない。思ったようなシーンを撮ろうとしても市街地ばかりでなかなか難しい。次第にため息が出てくる。「何か街中ばっかり走っていて面白くないですなあ……」とシシャチョー。それでもガイド本をめくって何かないかと探している……。

そうしているうちに、我々の背後にまた分厚い積乱雲が迫ってきているのに気づいた。知らない間に真っ黒な雲が伸びていて、下の方は滝のように水柱が落ちている。豪雨だ。「今日はダメです! この先も道はこんな感じで見どころもほとんどないんです。あきらめましょう! 早めに宿に入りましょう! また雨雲に捕まる!」と私。

シシャチョーも雨雲を見て焦ったようにガイド本をリュックに突っ込んだ。ボッ!! ボッ!! 大粒の冷たい雨が落ちてきた。バイクにまたがると一気に加速し、旧街道じてんしゃ旅の中では最高速に近い速度で雨雲から脱出した。

濡れるか濡れないかギリギリの攻防で走り続け、気がつけば小山宿に入っていた。後ろを見ると少し離れた場所に稲妻が光っていた。まるで獲物を取り逃して口惜しそうにしている獣のようだった。近くに大きな町はないので、今日はここで投宿することにした。

小山宿

分厚い積乱雲に追い立てられ、逃れるように小山宿にたどり着いた

オルトリーブのバッグ

オルトリーブのバッグはウォータープルーフ。こんな日には心強い

自転車カバー

宿の部屋に自転車を入れさせていただくために薄手のカバーを用意

 

 

今回の距離:
日本橋〜(二里八町・約8.6km)〜千住宿(二里八町・約8.6km)〜草加宿(一里二十八町・約6.9km)〜越ヶ谷(二里三十町・約11km)〜粕壁(一里二十一町・約6.1km)〜杉戸(一里二十五町・約6.6km)〜幸手(二里三町・約8.1km)〜栗橋(十八町・約1.9km)〜中田(一里二十町・約6km)〜古河(二十五町二十間・約2.7km)〜野木(一里二十七町・約6.8km)〜間々田(一里二十三町・約6.4km)〜小山(一里十一町・約5km)
合計二十一里三十一町二十間・約85.4km

参考文献:
「新装版 今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版
「新装版 今昔東海道独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版
「新装版 今昔中山道独案内 日光・奥州・甲州」今井金吾著 JTB出版
「地名用語語源辞典」東京堂出版
「現代訳 旅行用心集」八隅盧菴著 桜井正信訳 八坂書房
「宿場と飯盛女」宇佐美ミサ子著 岡成社
「道路の日本史」武部健一著 中公新書
「地名は警告する」谷川健一著 冨山房
「図解気象入門」古川武彦・大木勇人著 講談社
「歩く江戸の旅人たち」谷釜尋徳著 晃洋書房

 

次回へ続く

 

旧街道じてんしゃ旅その一

旧街道じてんしゃ旅 其の一 旧東海道編

旧街道じてんしゃ旅その二

旧街道じてんしゃ旅 其の二 旧中山道編

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