日本チャンピオンから世界チャンピオンへ「窪木一茂が辿ってきたパスウェイ」Part3 トラック、ロード、競輪の3足のわらじ
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2024年10月17日、男子スクラッチで世界の頂点に立ち、アルカンシェルをその手に収めた窪木一茂。しかし彼は、その瞬間に満足するどころか、既に次の戦いを見据えている。
これまでの道のりは、挑戦し続けることでしか前に進めないことを何度も示してきた。そして今、彼は再びオリンピックの舞台へ向けて、自分を更新しようとしている。最終回となるPart3では、2度目・3度目のオリンピックを狙うための“進化”と、これから競技を目指す子どもたちへ届けたい“本当のメッセージ”を語ってもらった。
東京オリンピック 挫折が残した悔しさと問い
2018年、ブリヂストンから声が掛かり、窪木はNIPPO・ヴィーニファンティーニから国内のチームブリヂストンサイクリングへ移籍した。ちょうどトラックナショナルチームも、海外からコーチを招くなど、立て直しと環境整備が本格的に進み始めた時期だった。当時、トラック競技で世界と戦ううえで窪木が強く感じていたのは、国際舞台での日本チームの“疎外感“だった。
「ワールドカップや世界選手権に行った時の日本の位置が“はじかれている“というか、敵と思われてないというか。ただ、トラック競技に限って言えば、外国人スタッフが増えて、コミュニケーションが図れるようになったことで、そうした疎外感が少しずつ解消されていったと思います。もちろん、成績が出始めたことも大きかったです」
トラックナショナルチームの環境は改善しつつあったものの、窪木の競技人生は順風満帆とはいかなかった。リオ大会と同様に男子オムニアム出場枠は1枠のみ。目標としていた東京オリンピック代表の座は橋本英也に渡ることとなった。
「タイムも出していたし、レースの結果も残していたんですけど、選考対象ではなかった。海外で培った“自分の意見を明確に伝える姿勢”を日本でも続けていましたが、それが当時はあまり良く受けとめられなかったのは残念でした」

帰国した窪木はブリヂストンジャージでトラックを中心に走った
代表落選を機に、個人契約していたメンタルトレーナーや理学療法士、栄養士などのサポート体制は一度解消した。モチベーションが大きく揺らぐ中で、窪木はその結果をどうにか自分の中で整理していった。
大学生のときに描いていたロードマップには、国体やオリンピック出場、全日本ロード制覇、ヨーロッパでプロ選手として活動することなど様々な目標があり、それを達成してきた。しかし、東京オリンピックが正式に発表もされる前だったため、その先のプランまでは描けていなかった。
「それまでの目標は“ヨーロッパを目指す“という方向性だったけど、日本に帰ってきて、“東京オリンピックをトラック競技で目指す“というビジョンがなかったので、どこか中途半端だったのかなと思いますね。やっぱりみんな本気で取り組んでいるんだから、帰ってきて2年間で代表だなんて、そんな甘くないよねと反省しました。橋本選手もリオオリンピックを逃して、“次こそは“という思いでやっている中で、それは甘いよなと自分の中で落とし込みました」
転機は突然に その瞬間に見えた“気づき”と変化
その後、コロナ禍に入り、東京オリンピックは延期となった。そのタイミングで競輪養成所へと入ろうとしたのには理由があった。
「オリンピックが翌年に延びて、まだ諦められないという気持ちがありましたし、スピードが勝負になるので競輪養成所に入ればスピードを養うことができ、短期間でも世界で勝負できる可能性があると思ったからです。東京オリンピックの舞台は伊豆ベロドロームで、(養成所の)寝る場所もすぐ近く。全部揃うと思いました。競輪という資格、オリンピック出場、強くなるための環境…..自転車しかない生活なので、他のことは考えなくていい。コロナ禍に入って、これはベストなタイミングだと思いました。それが2020年3月でしたね」
さらに、競輪選手養成所には、かつての競輪学校時代にはなかったカリキュラムが導入されていた。トラック短距離チームの選手たちを見ていたからこそ、そして彼らのトレーニング内容を理解していたからこそ、窪木は競輪選手養成所のカリキュラムに強く魅力を感じた。
「東京オリンピックに向けて外国のスタッフが日本に来て、脇本雄太さん、新田祐大さんら短距離チームが世界大会でも結果を出してきていた。でも、中距離チームはそこまでではなかった。短距離のブノワ・べトゥコーチや、ジェイソン・ニブレットコーチが取り組んでいたスプリント強化という部分を、僕はずっと課題にしていたんです。スプリントが弱かったから。短距離選手と一緒に練習するしか方法がなかったけど、それも難しい。じゃあ、どうすればブノワの教科書通りのトレーニングを受けられるかと考えたら、競輪選手養成所に入るしかなかったんですね。コロナで試合もないし、合宿もないし、イベントもないし、何もすることがない。だから本当にちょうど良かったんです。」
そして窪木は、競輪選手になることを目的としたわけではなかった。「早期卒業を目指せれば最高だと思って、そこを目指して頑張りました。競輪選手になるという目標で入ったわけではなく、夢をつかむとか、スポーツカーに乗るとか、そういう動機じゃなかったんですね」

2020年のトラック全日本選手権には競輪選手養成所のジャージで出場した
2020年3月に特別選抜試験を受け、5月に入所。全ては“足りない部分を補うため”であり、“オリンピックに向けた手段”だった。実際、養成所に入って得られたものは大きかった。
「10カ月間、週に3回筋トレできる環境は他にないというくらい、環境が整っていました。スプリント的な爆発力がついた感覚はあります。それだけじゃなくて、4㎞タイムトライアルのタイムも伸びているのは、僕自身の進化だけでなく、機材やウェアの進化もあって複合的な要因があると思います」
2度目のオリンピックへ 勝ちに向かう覚悟のアップデート
2024年のパリオリンピックでは、中距離男子はチームパシュート、マディソン、オムニアムの出場枠を確保し、窪木はその全てに出場した。今村駿介とのマディソンでは6位、オムニアムでも終盤の追い上げを見せて6位に入り、激闘を演じた。

パリオリンピックのマディソンでは6位という結果 Luca Bettini/SprintCyclingAgency©2024
初めて出場したリオオリンピックと、勝負に絡めて入賞を果たしたパリオリンピックの違いについて、窪木はこう話す。
「リオオリンピックは出たことで満足していた部分もありましたし、初めてのことであたふたしていた部分もありました。目に入るもの全てが新鮮で、楽しくて高揚していた感じでした。
パリオリンピックでは、楽しむことも知っていましたが、気持ちを高揚させないようにして、“本当にメダルを取りに行く“つもりで臨めていたと思います。コーチたちからも最初のミーティングで、『オリンピックは参加して楽しい選手もいれば、本気で目指している選手もいる。見たら分かるように、楽しくわいわいしている選手もいるけど、そうはならないように気をつけろ』と言われていました」

2024年のUCIトラック世界選手権、山崎賢人が男子ケイリンで世界王者になった後、窪木は男子スクラッチで初めてのアルカンシェルに袖を通した Roberto Bettini/SprintCyclingAgency©2024
そして同年10月、トラック世界選手権の男子スクラッチで、これまで(2022年、23年)銀メダルだった同種目を塗り替え、日本ナショナルチームの中距離男子として初めてアルカンシェルを獲得した。
「おそらく2025年以降、100m10秒の壁を1人越えれば、どんどん9秒台が出てくる、そんな原理と同じで、またアルカンシェルに近いメダル、あるいはアルカンシェルを取る選手が増えてくると思います。後輩たちに“窪木さんができたんだから“と思ってもらえれば、アルカンシェルを取って良かったなと思います」
窪木自身は「アルカンシェルは通過点」と話す。その先に見据えるのは「オリンピックでのメダル」だ。種目を限定せず、取れるもので取りたいと話す。
「最初からオムニアムだけを目指すとか、チームパシュートだけを目指すというのは違うかなと思います。単純にオムニアムは全部強い選手が走る。じゃあマディソンも強い2人が走る、チームパシュートも強い4人が走るよね、と考えています。オリンピック直前に強い選手が出てくることになれば、それは仕方ないです。何より、強い選手が走るべき。そこに僕が入れなければ弱いんだなと思うし、強い4人がいれば素晴らしいと思います」
自身の時間を自身のためだけに使うわけではなくなった。ナショナルチームのメンバーや後輩たちにも、強くなるための助言を惜しまない。
「その都度、もうちょっとこうしたらいいんじゃない?と教えたりしてますね。『そこまで話さなくていいんじゃない?』と言う人もたくさんいます。今村選手にも『去年も一昨年も窪木さんは全部みんなに伝えて教えてくれる。それで相手が強くなったら、僕なら怖いですよ』と言われたことがあります。でも、周りが強くなることで自分自身も強くなれると思っています。
何より、スタッフも僕たちのためにこれだけ時間を割いてサポートしてくださっているんだから、100%以上で全力を尽くさなきゃ失礼です。時間の使い方としてももったいない。手を抜いてぬるま湯に浸かっているのは駄目だよね、って僕は選手たちに言っちゃいます。分かってくれる選手は良いですけど、分かってくれない選手はやっぱりちょっと違うなと思います。そこがプロの精神だと思います。
短距離の選手たちはほとんどが競輪選手で、プロとして稼がなきゃ生活していけないからその意識がある。でも、中距離の学生などはそういう意識が少ないこともあり、そこに違いがあるのかなと思います」
“負けず嫌い”が突き破る限界 まだ天井はない

世界選手権でのメダルとアルカンシェル
現時点でトラック、ロードレース、競輪の3足のわらじを履く窪木だが、その中ではトラック競技とロードレースを中心に据えている。競輪の開催が入ると、狙ったトレーニングができない期間がどうしても生まれ、体力が落ちてしまう面もあり、3種目を掛け持ちする難しさも感じているという。
「オリンピックが近づくと競輪を走らなくなるんです。競技だけにフォーカスするので、そういう時期は上りもこなせたりします。オリンピックは4年間のサイクルなので、どの1年をどう過ごしていくかによります。とは言っても、ロードチームで走るためにはロードの結果が必要なので、そこは気が抜けないですね」
3年後の2028年ロサンゼルスオリンピックももちろん視野に入れる。現在36歳の窪木は、その時には39歳になる。それでも世界の頂点を目指す姿勢を支えている原動力は「負けず嫌い」という自らの性格だ。
「まだ強くなっている自分を感じているので、いっぱい練習したらどんどん強くなる自分が見えます。やりたい練習もまだまだある。ただ、絶対はない。選ばれるために強くなるだけですね」そのために必要な要素として、「もっとスピードをつけたいですね」と話す。
「具体的なタイムで言うと、1㎞で59秒、4㎞で4分、200mで9秒台。去年もオリンピックが終わって、4㎞を4分1桁秒で走りたいと思っていたら、2025年の頭のアジア選手権で4分8秒が出ました。目標をどんどん上げていかないといけないと思います。
僕は今からツール・ド・フランスは目指せないと思っています。だったら、トラック競技でオリンピックを目指すとか、もちろん競輪も頑張りたいと思っています。ロスオリンピックの時点で39歳でも、そのぐらいのタイムが出せれば、競輪でも勝負できるフィジカルはあるんじゃないかなと思うので」
いずれは競輪でも頂点である9人のS級S班を目指す。それはロサンゼルスオリンピック後の話だ。
自分を育ててくれた自転車界へ いま返したいもの

2025年のトラック世界選手権では、男子オムニアムで銀メダルに輝いた窪木 Luis Angel Gomez/SprintCyclingAgency©2024
これまで、ロード選手と競輪選手は全く別の存在として扱われてきた。しかし近年、橋本英也や窪木を先駆者として、ロード選手が競輪選手養成所を受験するケースが増えてきているという。ロードと競輪を両立してきた窪木のもとには、学生から相談が来ることもある。
「先日、ある高校生が『競輪選手になって、ロードでも頑張りたいんです』と言ってきました。それはすごく大変だという話はしました。でも難しいことだけど、挑戦しがいはありますよね。
僕はいつも思うんですけど、例えばツール・ド・フランスで35勝挙げたスプリンターのマーク・カヴェンディッシュが競輪を走ったら、どれだけ強いのか。それと同じで、“ロードのトップスプリンターになれば競輪でも通用するはずよね“と思っています。その認識をもっと広げていきたいし、両競技の距離を縮めたいと思っています。」
海外で戦うリアルについては、「やっぱり海外に行った方がいい」と窪木は語る。ロードレースでもトラックでも同様で、世界の最前線に身を置き、レベルの違いを肌で感じることが大切だという。「厳しいレースを走って、厳しい経験をして、くじけてほしいですね」
窪木が幼い頃、オリンピックという舞台は身近に感じられるものではなく、関心を持つこともなかった。だからこそ、自分に伝えられることを子どもたちへ伝えたいと考えるようになった。
「僕が子どもの頃は、オリンピックを思い描くことなんてできませんでした。田舎だし、スポーツが盛んな地域でもないし、五輪マークなんて目にしない。周りに“オリンピック”という言葉を使う人すらいなかったんです。そんな小さな町で、自分がオリンピックに出たことで、子どもたちに何か伝えられればと思います。
もっと早い段階から、トップアスリートやオリンピックを目指す環境に触れられていたら、中学生の頃からオリンピックを意識していたかもしれない。もっと良かったかもしれない。でも、それは仕方ない。だから、今はサービス精神を旺盛にしていきたいと思っています。例えばレースを見に来ている子がいたら、呼んであげて、こういう環境に触れさせてあげたい。僕自身がそうじゃなかったからこそ、そういう気持ちをすごく大切にしています」

指導者になりたいという考えは今のところないが、世界で戦いながら後進へ伝える手段を探し続けている。
「自分だけ強くなればいいという段階はもう終わりました。ここまで強くならせてもらって、いろんな経験もさせてもらって、この自転車業界に感謝しています。自分だけが頑張っている人を応援してくれる人は少ないと思うんですよね。誰かのために、と思うことも増えてきました。この業界が伸びることで恩返しになる部分もあると思うので。競技への関わり方はいろいろありますが、僕は選手を続けることでできることをやっています」
国内でも稀に見るほど多くの経験を積んできた窪木が、これから選手を目指す子どもたちに伝えたいことはこうだ。「好きなことを仕事にしてほしいですね。あとは、”好きこそものの上手なれ”」
アスリートの未来を支えるJPF奨学金制度とは
JPFでは、競技と学業の両立を支え、学生アスリートのキャリア形成を後押しするために、奨学金制度を運用している。対象となるのは、高校を卒業して4月から大学の自転車競技部に所属し競技を続ける選手を含む、大学生の自転車競技者だ。
窪木は「僕が学生の頃にこういう制度があったら、積極的に使っていたと思います」と語る。「英検3級以上という条件は、世界で活動する上でもつながる大切な要素です。僕も大学時代、奨学金を探してエントリーしていた記憶があります。自転車競技は特に費用がかかるので、こういう仕組みは本当に意味がありますし、もっと多くの学生に知ってもらいたいですね」
制度の詳細はこちら:
https://www.jpf.co.jp/jpfnews/scholarship_2/
日本チャンピオンから世界チャンピオンへ「窪木一茂が辿ってきたパスウェイ」
▶︎Part1 学生時代のターニングポイント
▶︎Part2 ロードでのプロ選手時代











