中根英登ロングインタビュー 追い続けた飽くなき強さ part1

目次

中根英登ロングインタビュー1

10月3日、イタリアのコッパ・ベルノッキを走る中根 ⓒSprintCycling

あくまでもプロフェッショナルにこだわった現実主義者が引退を決めた理由、そしてヨーロッパで走り続けた6年間で見てきたものは。
 

現実主義者が登りつめた先

2022年、32歳の中根英登が世界トップカテゴリーに位置するEFエデュケーション・イージーポストでキャリアを終えようとしている。
 
人当たりが良く、いつも人に囲まれているイメージが強いこの男だが、その裏には完璧主義者という側面を抱え、かつ圧倒的な現実主義の持ち主でもある。
 
高校生まで打ち込んでいたサッカーでは大きな夢を持ったという。だが、大学生から本格的に自転車を始め、特にプロツアーカテゴリーに上がってからは、一度だって夢を語ることはしなかった。
「現実を見過ぎたかもね。もうちょっと夢を見ても良かったのかもしれない」
そう言ってしょうがなく笑った。
 
引退という決断に対してどうしようもなく後ろ髪を引かれているのは、話をする限りでは明らかだったように思う。
ただ、シーズン終わりでのチーム探しの難しさと、自身のプライドとの折り合いと、世界での天井が見えない実力差と……、中根が引退を決めた要因は複合的ではあるだろうが、2022年シーズン中に感染したEBウイルスの影響はあまりにもクリティカルだったように感じる。だからこそ一視聴者としては”その先”を見たかった。
 
振り返れば彼の自転車選手としてのキャリアはひたすらに着実で、正直なところすごく華やかなものでもなかったように思う。日本人が特に重きを置く、オリンピックだったりグランツールの出場経験はない。
彼は、いわゆる”箔をつける”みたいなことにあまり興味を持たなかった……というより、強くなって結果を出すことだけを追い求めたからこそ、「ヨーロッパで結果を出さなければ走る資格はない」と、自らに足枷をかけた。
 
地道にコツコツと取るべき選択、やるべきことをストイックに行って歩みを進めた結果、2021年に世界トップカテゴリーであるワールドチームまで登りつめた。
 
中京大学の学連時代からチームNIPPOで経験を積みながら、国内コンチネンタルチームの愛三工業レーシングチームに3年間、プロチーム(当時はプロコンチネンタルチーム)のNIPPO・ヴィーニファンティーニなどに4年間、そしてワールドチームのEF・エデュケーションに2年間と、カテゴリーを上げると共に自信を携え、「最低限の実力が備わってきた」という感覚を掴んで自らの足枷をようやく外したとき、チャンスはもうそこになかった。
 

中根が持った基準・価値観

中根英登ロングインタビュー1

2019年はチームの出場権があったジロ・デ・イタリアではなくツアー・オブ・ジャパンを走った

 
 
トップカテゴリーを目指す多くの選手たちが持つグランツールへの憧れというものを中根は特に持っていない。2019年のNIPPO・ヴィーニファンティーニ・ファイザネ時代、初山翔がジロ・デ・イタリアで走ったときに、先にチームの出場リストに名前が挙がっていたのは中根の方だった。しかし、調子を上げていた2月の南米でのレース後に食中毒で体調を崩し、引きずった万全でない状態で、出場する”だけ”には意味を見出せず、自ら見送った。
 
「1日でも2日でもいいから出ればいいじゃないかって、当時NIPPO・ヴィーニファンティーニのときも言われていました。それは自分の中で許せなかった。記念出走だったら意味がない。選手として結果を追い求めてやっていた分、その選択をする自分も許せなかったからできなかったんです。あとは多分、そういうメンタリティで走れない自分と向き合うのが嫌だったんでしょうね。ある意味自分から逃げてたのかもしれないです。そこで現実を見せつけられて、翔さんと同じタイミングで辞めていたかもしれないし」
 
出るからには結果を求めない限り、中根にとっては意味がないことと同義だった。
一方で、中根自身公言はしていなかったが、母国開催の東京オリンピックでは代表争いで気を揉むくらい十分に照準を合わせていた。この出場枠獲得に向けてもまた、自身の中での基準を持っていた。
 
「今思うと、オリンピックはもちろん狙ってました。すごく意識してました。日本人ですし、母国開催ですし。だけどそこで走るには、ヨーロッパで結果を出さなきゃ走る資格はないと思ってたんです。だからヨーロッパのレースも頑張れました。毎年UCIポイントも取れていましたし」
 
プロチームに入ってからは毎年、アジアや国内ではなく、ヨーロッパでのUCIレースでポイントを獲得し続けることを目標の一つとしていた。
そしてそれを達成し、毎年毎年、着実に成長しているという実感と自信を掴んでいた。
 
徐々にステップアップして現在に辿りつくまでにNIPPOがチャンスをくれたことは間違いなく大きいと話すが、そのチャンスを生かせた結果だとも中根は強調する。
「選手としてこの上ないチャンスを生かすも殺すもそれは選手次第で。結果を出さなかったらさよならだし、その部分でも僕はちゃんとやれてたという自信はあります」
 
中根英登ロングインタビュー1

2020年のツール・ド・ランカウイ第6ステージではステージ勝利を挙げた ⓒSprintCycling

 
 
 
2020年まで所属したプロチームカテゴリーではエースを任されることもあった。しかし、2021年にワールドチームに上がると自らの結果を求めるような立場ではなくなり、エースのためチームのために走ることが多くなった。
 
「ワールドチームに行ったらもうそれしかない。自分の生きる道はそれしかなかったです。正直、自分がレースを狙えるという実力には到達できていなかった。それはもう絶対的にそうです。確かにデルコ(・マルセイユプロヴァンス)までは、自分がエースで任せてもらえるときもあったから、その部分は確かにやりがいも大きかったかもしれないですね」
 
そして2022年のシーズン終わり間近、チームから来季の契約がないことを告げられる。あらゆる伝手を使ってチーム探しもしたが難しかった。
トップカテゴリーのチームがたった一晩の間に消滅するスポーツだ。行き場を失って一度カテゴリーを下げて活動し、トップカテゴリーへと返り咲く選手も中根は見てきてはいたが、それも20代の選手ばかりだった。コンチネンタルチームからは声がかかったというが、32歳という年齢でその可能性を模索するには現実的ではなかった。
 
コンチネンタルチームで活動したら、「レースも自由に動かせるだろうし、絶対に楽しい」とも話したが、全てのカテゴリーを経験したからこそプロチーム以上のカテゴリーでの活動にこだわった。それゆえに、「ヨーロッパのトップに戻るための選択肢ではなくなってしまう」と考えた。
 
「僕はたぶん、”プロフェッショナル”な選手にかなりこだわりを持ったから、そこで結果を出すことが喜びだったと思います。そこのカテゴリーにいるからやった!じゃなくて、そこでちゃんと結果を残すことが目的でした」 
 
その基準を下げる選択肢は自分自身が許さなかったのだ。
 
 

トップカテゴリーで見たもの、求め続けた「成長幅」

中根英登ロングインタビュー1

2017年のティレーノ~アドリアティコの第2ステージ終盤にジャンニ・モズコンと逃げた中根 ⓒSprintCycling

 
 
 
中根はプロチーム時代、「まだまだ上に行きたい」という言葉をよく口にしていた。その思いがあったからこそ、多くの日本人選手が所属してきたNIPPOから絞り込まれ、ワールドチームへ上がれた選手となったのだ。
 
多くの選手にとって”夢”のワールドチーム所属だが、中根にとっては”夢”ではない。いわば階段を登った先にある場所だった。それゆえに夢から現実へと噛み砕く作業は必要としなかったという。
 
「ただ強くなりたい。誰よりも強くなりたくて。それが続く限りとにかく上にチャレンジしたい、上に行けるだけ行きたいという思いだったから、僕はワールドチーム行きたい!と思ったことは1回もないと思います。シンプルに勝ちたい、強くなりたいと思って活動した結果、そういうチャンスを呼び込めた。もっと上の世界で自分がどこまでいけるかが常に僕の目の前にあったことだったから、そこ(夢から現実へ)の噛み砕きはなかったです。目の前にあるものを1個1個超えていっていたからショックみたいなところはなくて、中に入ってそれがさらに自分ごとに置き換えられました」
 
プロチームの4年間では、ヨーロッパツアーを中心として、時にはワイルドカードでワールドツアーも経験した。そこでプロチームとワールドチームとのレベル差が大きくあることも感じ取っていたはずだった。だが、トップカテゴリーに入ってからの現実はさらに厳しかった。
 
「いざそこのカテゴリーにたどり着いて、そのチームの一員として走ったときに、プロチームだとちょっとどんぐりの背比べ的な部分があったりして、突出している選手はもちろんいましたけど、それは1人とか2人のレベルで。もちろんハイレベルなんですけど、あとはみんな似たような感じでした。それが、ワールドチームに行ったらもう全員が全員とんでもなく強い。プロチームから1段階も2段階も上でした。チームメイトに勝ち目がないなと思っちゃうようなそれぐらいの実力差」
 
実際に2021年のクリテリウム・デュ・ドーフィネで体験したことを中根はこう語る。
「ドーフィネだからツールの前哨戦ですよね。いつも以上にみんなが仕上がっている。それで、ステージをこなすごとにアタック合戦が激しくなっていったんですね。最後の3日間が一番速く感じました。疲れているはずなのに、疲れてないのかなと思うぐらいにすごかったんです。
いつもは当日にレースミーティングをするんですけど、最終日の前日は夜にみんなでミーティングになって。その前の第7ステージが本当にきつかったんですよ。アタック合戦がめちゃくちゃ速くて、1時間でもう60㎞ぐらい進んでるぐらい。全然前に上がれないってなってたときに、ふと先頭を見たら、チームメイトのローソン(・クラドック)と(ミケル・)ヴァルグレンがバチバチにアタックしてたんですよ。
ミーティングでみんなの前で『もう本当に人間ですか?』って言っちゃいました。『ローソンとマイケルだったじゃんね?あれアタック合戦してたの!信じらんない!』みたいに言ったらみんな爆笑ですよね。『いや、俺たちだってあれはきつかったよ!』って言ってたけど、『いやいや、本当に?!』みたいな話をしてました」
 
コロナ禍で2021年はスキップとなったが2022年に行われたトレーニングキャンプで、プロチーム時代には感じなかった力の差を特に感じたと話す。
2021年はシーズンの最後を全日本選手権で締めた中根は、2カ月ほど日本でオフシーズンを過ごした後、チームキャンプに合流した。
 
中根英登ロングインタビュー1

2021年の全日本選手権ではしっかりと力を見せつけた

中根英登ロングインタビュー1

レース後には「楽しかったー!」と叫んでいた中根

 
 
「シーズン最後に調子良く終われて、オフシーズンは来シーズンもそのままトップコンディションで行こうというモチベーションでやっていたので、あの時期でもベストに近い体を作れていたんですが、(2022年)1月のチームキャンプに合流したときに、コンディションがまだその時期だから作り上げてこられていない選手たちと同じところだったんですよね。コーチと計画しながらとてもいいコンディションを作れたのに、ここまでやってもこれか、この時期でこれか、という感覚に1回なりました
 
中根は、レベルが上がったステージで自らが戦う方法を模索しつつ、こう分析する。
「ある部分では僕もそういうレベルで戦えていたし、3分走とか5分走とかでは、彼らに引けを取らない走りができていましたけど、さらに彼らはそれが何回も繰り返せる。(新城)幸也さんもそういうタイプで。一発は自分の方が力を出せるけど、それが5回、6回と高いレベルでパワー落とさずインターバルを繰り返せる。そのレベルは幸也さんもすごいし、ワールドチームの選手たちはさらに、エース級はもっとハイレベルです。それはもう、とてつもないレベルの差に感じましたね。今年ジャパンカップで勝ったニールソン(・パウレス)もとんでもなく強いですし」
 
そんななかで中根はチームメイトを一番近い目標とし、自分がどういった立ち位置で走ることができるのかを確認していた。ただ、プロチームのときはチーム内で勝った負けたができていたが、圧倒的な実力差を前にしてもはや感嘆に変わってしまっていた。
「悔しさとかより、もうなんかシンプルに、うわ、すげえみたいな感覚になってました。どうにかして勝ってやろうという思いをいつの間にか忘れてたかもしれないです」
 
それでも2021年はアシストに徹底した中で、9月のベルギーでのプリムス・クラシックでUCIポイントを獲得できたことは成長を確認する要素となり得た。
 
「2021年、このチームでアシストがもう自分の仕事だって割り切ってやっている中でポイントを取れたのは、最後の最後ですごく自信になったし、自分が成長できたと思えたけど、でもその成長幅とチームメイトたちとの力の差っていうのは、途方もなく感じてしまったというのも事実です」

アシストの仕事に関しても、プロチーム時代とは感覚が違ったそうだ。

「僕の感覚的に(ワールドチームは)減点方式的な雰囲気を感じました。できて当たり前。プロチームまでは、よくやった!ここまでできたか!みたいなイメージです。
ワールドチームに入って、この日はできたというのはあっても、課されたこと以上のことはなかなか難しかったです。それができれば、もちろん自分の中でも自分自身がたぶん許せたというか、アイデンティティを保てたでしょうし。
いくつかのレースでは、ナカすごいな!よくやったな!って言ってもらえたことがあったし、もちろんそれは自分のモチベーションにもなりましたし、ほっとする場面でもありました。ただその回数は(今年は)減ってたのかもしれないです」

一方で、中根はアシストとしてのやりがいも見出していた。
2021年、ブエルタ・ア・ブルゴスの最終第5ステージで、チームメイトのヒュー・カーシーが勝利したことは大きな喜びを得た瞬間だった。

「あの頃は僕もやっとチームの環境に慣れてきて、ブルゴスの最終ステージ、ラスト10㎞切った上りの麓で牽引に加われたんです。ここまでやれたというのがあったから、それはめちゃくちゃうれしかった。チームメイトの成績につながって、自分では見られない部分を共有できる感覚がうれしかったですね。
でも、それも課された仕事に対して100%できたときじゃないと感じられないと思います。ブルゴスでは各ステージをとおして、与えられた仕事をこなせていたから特にうれしかった」

ヨーロッパでチームメイトの勝利を経験したのはそれきりだったが、ワールドチームでチームとの一体感を得て、アシストのやりがいを感じられた経験は中根の印象に強く残っていた。

 
 
 
参考サイト:中根英登ブログ
https://ameblo.jp/hidetonakane/