【コラム】ケルビム・今野真一「自転車、真実の探求」第5回 良いホイール

目次

イノウエレーシングサイクルのステッカー

スポークホイールに惹かれて

「中二階天井には競技用自転車が逆さに吊るしてある。
全部で八台。それぞれ私の体にピッタリ合わせて作ってもらった特注品で、中には小型自動車一台分の値がついた、まさに自転車のオートクチュールとでも言うべき名車が含まれている。アトリエを訪れたある詩人が、思わず息をのみ「まるで蟬の殻みたいだね」ともらしたけれど、なるほど透き通って強靭かつ繊細、地を這う機械には見えないかもしれない。
――――――――――中略――――――――――
そこで見たブルーの玉虫色に塗られたフレームのこの世のものとも思われぬ美しさ、スポークやハンドルバーのクロームメッキの鋭角的な輝きを今も忘れることができない。夕暮れ近くなって、ほの暗さを増した店の奥の方で、沈黙の輝きを四周に放っている競技用自転車は、少年の私にとって荘厳な眺めであり、気高い恋人の姿ともいえた。」

この詩は1925年に東京下町で生まれ、競輪選手として活躍したのち、60年代にパリで活動した画家、加藤一氏の詩だ。
加藤氏は当時、ヘルシンキ五輪出場確定のスプリンターで名を馳せていたが、家庭の経済事情を支えるため、五輪出場の夢を涙をのんであきらめ、競輪選手に転向した。当時競輪選手は五輪には出場出来ない規定があり、苦渋の選択であった。その後、競輪を早期引退した後、渡仏、幼少よりの絵の才能を活かし画家として成功。その後UCIの副理事まで務めた、生涯を自転車と絵画に捧げた人物だ。現在競輪選手がオリンピックに出場できるのは彼の功績が大きいだろう。
私は氏の残したこの詩を、少年が自転車やホイールに抱くイメージを見事に文章に残した一文として心に刻んでいる。そしてまた、強靭かつ繊細な自転車を彩る要素に鋭角的な輝きを放つスポークホイールが刻まれている。
前置きが長くなったが、今回は私にとって自転車の中でも最も重要かつ根本的な性能を補うホイールにフォーカスを当ててお話しをさせて頂きたい。

 

性能の物差し、テンションとは

リムはカーボンリムかアルミか?
ディスクかバトンか?
大きな所では、テンションがかかっているのか否か。(コンポジットホイール等)
もちろん空気抵抗も重要なファクターだし、どんなシチュエーションかも課題となる。
また競争の場合UCIなどの規定も大きく絡み、性能の優劣のみで選手が使用しているとは限らない。この状況下で私を含め各エンジニアが性能に付いて審判を下すのは容易なことではない。

 

ホイールを試す今野さん

ホイールを試す筆者

 

想定される状況下で適正テンションは?  と数値で表した所で全く意味をなさないと私は思う、今回のコラムでは極力数字を使わずにに考察を進め、「適正値」という概念を避け「高い」か「低い」かという表現方法で進めていくこととする。
各ホイールメーカーや選手、そしてショップスタッフが様々な想定条件下で究極的に何を目指しホイールを製作し組み付け、選手はどんな要望そして理想があるのかを、可能な限り理解を深めていきたい。

 

競輪競走に見るテンション-定点観察

世界で最も賞金の高いスポーツとしてその名を馳せる「競輪」
そのフレーム製作は私の重要な仕事の一つだ。
コンマ1秒で数千万という大金が動き、選手も各メカニックも正に命を捧ぐ想いで競走に従事している。ホイール組みも然りだ。
レギュレーション上、パーツ構成は至ってシンプルで一般的には下記になる。

ハブ:
・シマノ デュラエース 36H ラージフランジorスモールフランジ
・ヨシガイ グランコンペプロ 36H
スポーク:・星スポーク 15-16 Wバテッド ・15番エアロ(因みに長さは305mm一択)
リム:アラヤ 16Bゴールドラベル 36H
組み方:8本組み シングルクロスorダブルクロス

過去に申請された物も挙げれば膨大な数となるが、現場で走る選手を見る限り9割以上がこの中のパーツでホイールを組んでいる。シンプルであるが侮ってはいけない、この限られた構成内で驚くほどにバリエーションに富んだ組み付けが行われている。
物事を調べる際、多くを観察するのは至難の技だがテーマを一つに絞り考察していく事で全体の本質が見えてくるケースがある。今回は競輪競走で使われるホイールから紐解こうということだ。

 

トリプルクラウン

 

そのホイール誰が組んでるの?

「競輪GP」
その年最も活躍した9人の選手が戦う”競輪頂上決戦”の異名を持つレース。ここで使われる機材は当然ながら最高のメカニック達が関与した機材しか選ばれない。
この舞台で出場選手9人中6人のホイール組を手がけた職人がいる。それが井上三次氏だ。
自身も1968年メキシコ五輪出場を果たし、その後競輪選手に転向し活躍。現在埼玉で「イノウエレーシングサイクル」を主宰する人物で、経歴だけ見ても競走に精通している人物にほかならない。選手達がホイール組みの達人を考えた時、口をそろえて名を挙げるのはおそらく氏の名前だろう。
氏のショップに伺いしお話しをお聞きすることとした。

井上三次さん

 

テンションは高めか低めか?

テンションとは端的にスポークがリムを引っ張る張力だが、このテンションは高めが良いか低めが良いか? という論争がプロ競輪選手やホビーライダーに各ショップでは繰り広げられていることであろう。比較的容易にカスタマイズできる要素でもあることが要因だったり、既存のホイールをコース等によりチューンアップするのは楽しい作業でもある。

では高めか低めか? となるが。井上氏は多くのケースでリム剛性ギリギリまでトルクを上げている。殆どのリムが破損する限界(鳩目が変形する)付近までテンションを近づけていた。(無論長年の経験からの作業であるので一般の方は真似しないで頂きたい)

最初に申し上げておくと、競輪のリムは安全上の配慮から実は柔らかめに作られている。競輪競走では落車は日常茶飯事だ、リム破損(割れ)による怪我のリスクは避けられない。ここで安全策としてリムを柔らかくし割れを起こさない硬度でリムを仕上げてある。私も実際現場でリムが割れているのをあまり見かけたことがない。ロードレースや一般車ではよく割れているのを見かけるが、この辺りは「公正、安全」を掲げる競輪競走の非常に好感の持てる規定や配慮と言えるだろう。

故に一般に販売されているリムよりも高テンションを求められることは否めないとも言える。

 

テンション管理

テンション管理について伺った所、井上氏はテンションメーターを一切使わない。必要と感じたことさえないというから驚きだ。
井上氏曰く「結局のところ、テンションメーターで管理しても精度は出ないし各スポークのバラつきは当然出る、その管理は手の感覚に勝る道具は存在しない」という。手の感覚一つで一流選手相手に高めから低めまで対応する技術は、競輪プロに1000本以上組み付けしてきた、氏のなせる技だろう。

 

組み方は?

組み方は、JISまたはイタリアン、シングルクロスまたはダブルクロスの組み合わせがあり、スポークはエアロとダブルバテッドがある。また結線と言われる少々聞きなれない加工がある。これはスポークが交差する部分に銅線を巻き付けハンダで接合する加工だ。剛性アップも期待できるが、落車時の怪我防止にも繋がるため、前輪のみにこの加工をする選手が多く見受けられる。こんな事情も安全性を重視した競輪競走ならではであろう。

安易に剛性を上げ、スピードの追求のみではない事情が多く絡んでいる事も理解して頂きたいと同時に、安全に走れるからこそライダーは速度を求め競走に集中できるという要因も当然あり、スピードへの追求からの安全性とも言える。

スポークの結線加工
スポークの結線加工

 

緩みや狂いは?

多くのホイールはスポークでテンションを張る為、ネジ(ニップル)でテンションを上げる構造となっている。リムやスポークの素材の性質や変形率などで適正トルクが存在しその範囲であればまず緩む事はないだろう。すなわちリム等が変形しない限り狂いは永久的にないということになる。
しかし、自転車ホイールの場合厄介なのは、かなりの力が四方八方から加えられ振動も半端でないので、当然緩みは生じる。
しかし井上氏の組むホイールは「緩まない」(狂わない)のだ。
決戦用ホイールの場合2〜3年ノーメンテナンスの場合もあると言う。また驚くことに、軽度の落車であれば狂いが全く出ない程の剛性感もある。これには組み付けのプロセスや多くの秘策があるが文章化することは控えさせて頂きたい。

 

最強競輪ホイールは?

ホイールが硬いか柔らかいのどちらが良いかはさておき、単純に最も高剛性の組み合わせや組み方を氏にお伺いした。
それは、ダブルクロスで組み上げ、エアロスポークを目一杯、高いテンションで張り、さらにクロスしてる部分全てに結線すると言う組み合わせが最硬度だそうだ。

一見この星のエアロスポークは扁平となり横には弱そうだが、ダブルバテッドスポークより一回り太い15番プレーンの物を潰しエアロにしているので断面積が広い為テンションも高めが可能で、高剛性で組み付け可能なのだ。
単純に硬く組みたければ、上記は間違いなさそうだ。確実に剛性は上がるが井上さんは自身の経験や判断を決して選手に押し付ける事はしない。体重は? 戦法は? 脚質は? バンクは? などを考慮した場合、井上氏と言えども作業場で最善の結果を出す事は困難だ。選手からの話を常に聞く謙虚さとその声を一番と考える姿勢こそが最大の技術であるからだ。

 

前後のバランス

前後のバランスも気になる所だ。
こちらも揺るぎないお答えをお持ちの様であった。また競輪界には多くの流行が存在するが、現在は前輪を目一杯硬め、後輪を柔らかめにする選手が多いという。
安全上の事情から前輪結線は前途にも触れたが、性能上の理由としては二輪車としてのハンドリング性能と前輪に掛かる物理的なGやトラクションが関係してきそうだ。特にスプリント時にはかなりの荷重が前輪に掛かる。これはロードレースのスプリント時やタイムトライアル競技などでも言えることだ。競走によっては、ほぼ前輪に荷重を任せる選手も見かけるほどだ。
この状態で前輪に余計なウィップが掛かるのは得策でなないのは容易に想像はつく。コーナーリングなどでの微妙なホイールのウィップを求める場合は不利になるが直線的なスピード追求では硬めが理想的だろう。
一方 リヤに高テンションを求めないのはなぜだろう。
これは、ライダーの脚力や戦法に大きく関わりがありそうだ。瞬発的なスピードを自身で作る事を苦手とする選手は若干のホイールのタイムラグを好む傾向がある、一方自力選手(自分でスピードを作る)は端的にスピードを追求する傾向にある。
しかし、追込み選手(自力選手などを追走)はまた複雑だ。前のライダーに速度域を合わせなければならないが、その場合バックを踏む(ペダルを逆回転に力を入れ減速する)事も多々ある。高剛性のホイールではタイミングが合いにくく遅れをとってしまうと言う。車間を空けて追走出来ればそのリスクも軽減されるが、追い込みにシフトしたベテラン選手ともなるとそうもいかない。

 

「流れる」のは高いテンションか?

トラック競技をする選手たちはしばし、自転車の性能に対し「流れる」「流れない」という表現をする。私もこの世界に入って耳にする様になった表現だ。
簡単に説明すればペダルに力を加えていない状態(ニュートラル状態)でも自転車が進んでくれるか否か、といったイメージを想像してもらえると分かりやすい(踏んでいる状態の場合もある)。もちろん流れる自転車は良い自転車ということとなるだろう(流れすぎて困る場合もあるのでこれがまた難しい)。
フリーの付いているロードレーサーでは体感しにくい感覚なので、ロードレーサーの性能表現としてはナンセンスでもあるため、ローディーの間では話されないのかもしれない。
基本的に「流れる」自転車は高剛性のホイールが組み付けられている事が多いと言う。
一般的にニュートラル状態とは高速であるにも関わらずスプロケットに力が加えられていない状態であり、その時にはホイールが無駄なバネ感やウィップをしていては、やはり流れないのであろう。

 

結論は? 座談会

私自身選手の話を聞き、井上さんのお話しやさまざま論文も読む。そして社内でこの件についてスタッフを集め座談会を開いた。
多くのメーカーの打ち出すデータやF1やモーターサイクルはどうだろう? などなど多くの意見が飛びかった(スピード域や重さの違いが大きすぎる為に端的に比べることはナンセンスである)。何が正解なのかは難しいが、多くの非難を受けることを覚悟して敢えてここでは言い切らせて頂こうと思う。
結果 「ホイールは硬ければ硬い程良い」
どうだろう、例えば車やモーターサイクルのホイールにコーナーでの変形を求めたり、乗り心地の良さを求めていたとしたら? 車ではサスペンションやデフギヤなどが役割を担い逃げや路面追従性を補っている。レーシングカーに関していえば、ホイールはひたすら剛性とバランス。タイヤに関して言えばグリップ力と路面との摩擦のバランスを追求するのみだ。

自転車に路面追従性やショック吸収性、コーナーでのホイールのウィップ、さらに競輪競走における、脚に直接ショックが直結しない様な装置や構造がフレームに追加する事ができるのであれば? 更に現在の重量で全く歪まないホイール製作が可能であれば? ホイールに関するその悩みは、ほとんどの場合二次的な要因ばかりだ。
現在の自転車のホイールの悩みは他で吸収できないから、ホイールで補うといった具合だ。太いタイヤが流行り、ホイールにクッション性を求めているのは、車で言う所のシャーシやサスペンション機構が未熟であるからにほかならない。

勘の良い読者はお気づきだろうが、そのシステムは実は自転車フレームにはしっかりと設けてある。
フレーム(特にスティール)を良く見て頂きたい。フォークは曲がり、シートステーやチェーンステーは先にいくほどに細くなり、太さは驚くほどに細い(10φ)。200年の歴史で作り上げたこのフォルムは何を意味するのだろう。
コーナーでスムースに曲がる適正なバネ感はフレームで実現し直接脚や体に響く振動もフレームで対応できるのであれば、ホイールはとことん硬くて良いのだと思う(技術的には追いついていない)。これは二輪車の構造学的にも、あまりにも当たり前の話だ。
現在主流の回転体(ホイール)でクッション性の弱点を補おうとする考えはフレームの剛性過多を補う二次的な打開策でしかない。二輪車が走る理論上、全くの得策と思えないと思うのは私だけだろうか。

 

終わりに

現在では手組みホイールを組めないショップさんも多くあると聞く。残念な話だが完組ホイール主流のなか、当然の流れなのかもしれない。正直組めたとしても、井上さんの様に経験を積む事はもはや不可能で、私もまた競輪競走に従事するものとして氏に追いつく事は不可能だ。
最も神経を使うところをお聞きしたところ、タイヤ貼りであると教えて頂いた。リムのテンションのお話を伺いに行ったのにこの回答とは拍子抜けしたが、もっともなお話だ。ご存じの方もいるだろうが、シームレスタイヤは縫い目がない分非常に伸びがあり貼るのが至難の技なのだ。(この話もどこかでふれたいと思う)

ソーヨーのタイヤ

一見ただのスポークホイール、しかしただ物ではないのだ。そのホイールは控えめに「INOUE RACING」のステッカーが貼られている。井上さんのホイールは一切宣伝はしたことがないと言うし、多くを語らない。しかし性能は口コミで広がり全国の選手からの依頼はひっきりなしだ。

イノウエレーシングサイクルのステッカー

 

最後に井上さんのお話、私の経験などを踏まえ最強のホイールとフレームの組み合わせをご紹介したい。

・リム:36H チューブラーリム(古いフランスのマヴィック GP4 GEL SSCなど)
・スポーク:15−16Wバテッド DT製
・組み方:8本組 Wクロス W結線
そして、最後にしなやかで良質なスティールフレーム

スティールフレームが担うシャーシの素晴らしさと高剛性ホイールの回転体としての役割。現代のロードバイクとは別次元の「流れ」を貴方もきっと体感できるはずです。

今野真一第5回