猪野学 ネオ坂バカ奮”登”記 第4回
目次
スタート地点。謎の不調にみまわれた筆者。
スタートは待ってくれない
「ショー・マスト・ゴー・オン」という⾔葉がある。
「それでも幕は開く」という演劇⽤語だ。
セリフが⼊ってなかろうと芝居の幕は開くという俳優界では恐れられている⾔葉だ。
スポーツの世界もこの⾔葉は当てはまる。
コンディションが悪かろうが、仕上がってなかろうがスタートは切られる。
2021年の初戦、⽇光⽩根ヒルクライムほど不安な状態でスタートしたレースは無い。
昨年は⾼強度のトレーニング。90秒400W、8分270Wをメインでやってきた。そのかいあってか20分⾛は248Wと⾃⼰最⾼をマーク出来た。
しかし結論から⾔うと、私の初戦は35分206Wとネズミの⿐⽑ほどの出⼒しか出せなかった。
何故そんな事になったのだろうか……ベースのトレーニング不⾜だったのだろうか。
⾼強度をやり過ぎからの蓄積疲労だろうか。
不調はある⽇突然やって来る。それでも……幕は開くのであった。
レース前の過ごし方
レース当⽇。
私の不調とは裏腹に坂バカ部の⾯々は意気揚々とローラーでアップしている。
階段王の渡辺良治⽒はビンディングのクリートが硬くてハマらないとガチャガチャやっている。
仕⽅ないので六⾓レンチで緩めてあげた。
階段垂直マラソンでは世界3位のポテンシャルを持ちながら、自転⾞は本当に初⼼者なのだ。
自転車経験が豊富なはずのママチャリ坂バカ⼾丸⼤地もレーパンの下にブリーフを履くというミスを犯す。
更⾐室でブリーフ脱いで来いと指⽰を出す。
他にもゼッケンの付け⽅などを部員にレクチャーする。
わいわいと準備をしていると、2020年にぶっちぎりで優勝した地元群⾺のスター!星野貴也選⼿が現れた。
突撃取材し、速さの秘訣を聞くと「張り切り過ぎない事です」と意味深な⾔葉が返ってきた。
これは私の⼼に痛く響いた。
頑張らないと強くはならない。しかし「過ぎる」とコンディションを下げる。
物事には加減がある。「いい加減」が⼤事なのだ。
これは芝居にも通ずるとスタート前に妙に勉強になった。
スタート間近のロケバス⾞内では緊張をほぐすためだろうか、階段王と⼾丸はとにかくよく喋っている。2⼈でずっと話している。
しかしよく聞くとあまり会話になっていない。
そして会話の終わりは⼤概、階段王の「あぁ味噌カツ⾷いてぇ」で終わる。
恐らく⽇頃から減量しているから、レース後の御褒美は味噌カツなのだろう。
それぞれのヒルクライム
そうこうしている合間にスタートの時間になった。
2021年初戦が幕を開けた。
今回はコロナ禍で密を避けるために3⼈ずつスタート。
距離11.3km、最大標高差472m、平均斜度4.1%のコースは、序盤が平坦なので3⼈で協調して⾛る。と⾔いながらも私は随分引いてしまった。するとスキー場区間の激坂が現れる。
ここからはそれぞれのペースでバラバラになる。
ズドンと抜け出したい所だか、やはり調子が悪い。やたらと呼吸が苦しい……標⾼のせいだろうか。
スキー場区間を過ぎて平坦になるあたりで「猪野さん!」と声をかけられた。5分遅れでスタートした筧五郎さんだ。物凄くゆっくりなケイデンスで進んでいる。
凄いトルクだ。まるで往年のヤン・ウルリッヒのようだ(古い)。
平坦区間も猛烈に踏んででカッ⾶んで⾏き、⾒事年代別で優勝されていた。流⽯だ。事前合宿での階段は踏めなかったのに、ペダルは猛烈に踏める。自転車競技は奥が深い。
ペダルを踏めない私はクルクル回す。
呼吸は苦しくなる⼀⽅だ。
ここである事に気づく。汗を⼀滴もかいていない。寒いのだ。スタート前のアップ不⾜か!? ⼾丸のブリーフのせいだっ!!
そのうちに⽩いものがパラつき始めた。雪だ!
寒さでコンディションが悪いのか分からないが苦しいだけで全然出⼒が上がらない。そのうちに下り区間に差し掛かる。誰かの後ろに付いて脚を休めたいが、コロナで 密を避けるために周りに誰もいない。コロナめ!こんな所にも影響を及ぼすのか!
下りを終えて上り返しからゴールまでは最後の我慢⽐べだが、全く⼒が⼊らない。泣きそうになりながらゴール!こんなに無⼒感に苛まれたゴールは初めてだ。タイムは35分47秒で29位だった。
吹雪いてきたので⼤慌てで下⼭⽤の荷物を探し防寒をしていると、階段王が奇声を上げてゴールに現れた。階段王はゴール時に追い込み過ぎて天才テノール歌⼿パバロッティより⾼⾳の奇声を発する傾向にある。
初めてのヒルクライムで10位!追い込めるから速いのか、速いから追い込めるのか?何れにせよ追い込めるのは才能だと思う。
⼾丸はママチャリ部⾨で優勝。
河野は⽬標の60分切りを果たし満⾜気だ。
ご褒美はアレ
悲喜交々な坂バカ部ではあるが、寒いなか頑張ったので番組スタッフが梺の温泉に連れて⾏ってくれた。
そこで⼾丸が何やらそわそわしだした。
どうした?と聞くと「すみません、パンツ忘れました」と。
会場の更⾐室にスタート前に脱いだブリーフを忘れてきてしまったのだ。
どうしたものかと困るスタッフに⼾丸は「僕は群⾺のスターなので、誰かが届けてくれる筈です」と。確かに⼾丸は地元群⾺の⼈々にとても愛されている。誰かが届けてくれるかも知れない(後⽇聞いたら返ってこなかったらしい)
落ち込んでいた私も階段王も、⼾丸の底抜けの明るさに救われたような気がした。
⼾丸のおかげで明るさを取り戻した坂バカ部は、露天⾵呂でゲラゲラ笑いながら疲れを癒した。これもチームワークというやつだろうか。
階段王も「味噌カツ⾷いてーなー 」と楽しそうだ。
ロケバスが集合場所の新宿に着いた。
このチームでまた頑張ろうと再会を誓い、解散した。
階段王だけは何故か駅ではなく新宿の雑踏へ消えて⾏った。
後ろ姿の⽩いジャージの背中には「階段王」と書かれている。
まさかこれから新宿副都⼼の階段を登りに⾏くのだろうか。
いや…違う…⾷べに⾏くのだ。
「味噌カツ」を。