ロードバイク激変の時代 市川雅敏のジロ出場を支えた3つの革新

目次

  • text 中田尚志
  • photo 市川雅敏/Kenta Onoguchi
  • movie コマツトシオ

1990年5月18日、日本人で初めてジロ・デ・イタリアのスタート地点に立った市川雅敏氏。彼のジロ出場を支えたバイクには現代のロードバイク史に大きな影響を与えた3つの技術革新が盛り込まれていた。

引き続きピークス・コーチング・グループのコーチ中田尚志さんがお伝えする。

 

 

①カーボンフレームの登場

ルックのカーボンバイク

市川がヨーロッパでプロとして活躍した時期は、ロードバイクの歴史を語る上で欠かせない3つの大きな発明があった。そのひとつがカーボンフレームだ。

市川がプロ入りする前年の’86年ツール・ド・フランスにLOOK(ルック)社はカーボンフレームを投入。ラヴィ・クレール・チームのグレッグ・レモンとベルナール・イノーという2人のスター選手が使用した。

総合優勝を狙う選手がカーボンフレームを使用するのは歴史上初めてのこと。彼らが総合1、2位を独占したこともあり、カーボンは次世代のフレーム素材として一躍脚光を浴びることとなった。

しかし、当時はまだカーボンフレームの製作技術を持つブランド自体が少なく、中でもプロチームをスポンサーできるほどの資金力をもつメーカーはLOOK社の他Vitus(ビチュー)、ALAN(アラン)など数社しかなかった。

当時のカーボンフレームは軽量化を実現できるもののスチールと比較して耐久性が低く、プロの年間3万kmにおよぶ走行距離や頻繁な輸送といった過酷な使用に耐えうるものではなかった。

量産体制にも課題があり、採用に踏み切るプロチームはまだ少なかった。

デビューした’87年は、まだ集団の90%以上がスチール・フレームを使用。カーボンはまだ未知の素材であった。

少しずつプロの集団に浸透していったカーボンフレームだが、’90年の時点でもLOOK社のカーボンに乗るプロチームは、TOSHIBA(東芝)、ONCE(オンセ)、市川の所属するフランク・トーヨーのみ。

市川も当初カーボンバイクを使用するにあたり不安があったという。

当時のフレーム構造は現在主流のモノコックではなく、スチールより若干パイプ径が太いカーボンパイプをアルミラグに接着する工法を採用していた。しかし、接着技術が未熟でよく抜けが発生したという。市川もレース中に突如バイクの挙動が不安定になり確認するとラグからパイプが外れていたことがあるという。

その後の技術革新によりカーボンは信頼性を増し、その軽さと剛性、振動吸収性能が認められ2005年ごろにはレース界で100%の使用率になるまでシェアを伸ばした。

 

②クリップレスペダルの普及

タイムのクリップレスペダル

市川の現役時代はペダルシステムが変化した時代でもある。シューズを革のストラップで固定するトークリップから、ビンディングで固定するクリップレスペダルへと進化を遂げた。

こちらも’86年ラヴィ・クレールの活躍により一気に普及が進んだパーツだ。この時期の選手は現役生活中にトークリップからクリップレス・ペダルへの転換を経験している。

市川は’87年のプロデビュー当時はトークリップ、’89年からTIME(タイム)のクリップレスペダルに切り替えている。

ペダルシステムの変更に伴いシューズにも変化が見られた。それまでシューズのソールは木底か比較的柔らかいプラスチックソールだったものが、剛性を確保するためにカーボン混入プラスチックやフルカーボンを採用するようになった。

ペダルの進化は、シューズの技術革新ももたらしたのである。

 

③デュアル・コントロール・レバーの登場

デュアル・コントロール・レバーを装着したジロでの市川のバイク

デュアル・コントロール・レバーを装着して挑んだ唯一のステージ

シマノは1990年、自転車の歴史を塗り替える革新的なパーツを登場させる。変速時にハンドルから手を離す必要が無いデュアル・コントロール・レバーだ。

ブレーキレバーで手元変速を可能にするこのシステムは変速スピードを上げダンシング中のシフト操作を可能にした。

そのメリットを享受できるスプリンター系の選手にはすぐに受け入れられたが、クライマー系の選手は敬遠する者も多かった。

レバーは当時ペアで500g近くあり(現在は365g)、重量増のデメリットを嫌ったのである。

市川はシマノから派遣されたメカの強い勧めがあり、ジロのクイーン・ステージ(最難関ステージ)でこのレバーを使用することにした。しかし、スタート地点で総合1位のブーニョを始めとするトップ選手がWレバーに戻しているのを見てズッコケたという。

 

その後、デュアル・コントロール・レバーは進化を重ねその有効性を確固たるものにした。

 

LOOK社のカーボンバイク

ルックのカーボンバイクのトップチューブ

撮影したマシンは1990年のジロと宇都宮の世界選を走ったバイク。LOOK社は市川のためにフルオーダーでこのバイクを製作したという。

カーボンの耐久性や接着技術はまだまだ開発途上で、ラグの表面に細孔を作り接着面積を確保する努力がなされていた。

また長時間紫外線にさらされると接着面が劣化するため、できる限り太陽光に当てない気遣いが必要だったという。

既にツール・ド・フランスで活躍していたとはいえ、当時はまだ発展途上だったことが伺える。実際プロのレースではフォークの抜けや破損が頻発。市川はTOSHIBAのエースのジャン・フランソワ・ベルナールが重要なステージではカーボンからスチールの軽量パイプ、レイノルズ753を使ったフレームに乗り換えているシーンを見かけたという。

市川も時速100kmを超えるプロの下りで使用するには不安があり、フォークのみ日本製のクロモリに交換している。

コンポーネント

市川のルックのクランク

コンポーネントはシマノ・デュラエース7400シリーズ。ディレーラー、ブレーキ、クランク、コグなどのパーツを一社の単一グレードで揃える、グループセットの概念を定着させたモデルだ。

12年間もの長きにわたって継続販売された異例のロングセラーモデルである。1984年の発売開始から1995年の販売終了までマイナーチェンジを繰り返す中で6スピードから8スピードまで変速段数を増やしている。ブレーキがシングルピボットから現在主流のダブルピボットに変化したのもこの時期だ。

ギヤ

市川のルックのスプロケット

「プロのローギヤは39×21がスタンダード。39×23を使う時はグルペット」。当時のギヤ比について市川はこう語る。市川のバイクにつけられたギヤは8段。数年ごとに多段化が進んだ時代でもあった。8スピードは’91年に発売開始されたことから、プロトタイプだと思われる。

ホイール

市川のルックのホイール

撮影したマシンには宇都宮世界選で使用したホイールが装着されている。中野浩一氏のV10を支えたフレームを手掛けた長澤義明氏が製作したもの。リムは中野浩一氏も愛用したアラヤ・エアロ1、スポークにはホシのエアロスポークが使用されている。タイヤはビットリアのTT用タイヤ。市川は時にトラック用タイヤで世界選を走ることもあったという。

スピードメーター

キャットアイのCC-7000

キャットアイのCC-7000を自費購入し使用している。市川は随所に日本製パーツを使用している。当時は現在ほどパーツの使用に契約メーカーの制限がなかった。ハンドルやホイールとともに’80年代の日本製パーツの隆盛をしのばせる。

ハンドル

市川のルックのハンドル

日本のサカエがモドロのライセンスを取得し、生産していたアナトミックハンドル。アナトミックハンドルが登場したのもまたこの時代である。

サドル

市川のルックのサドル

レイデル・GTi。日本では聞き馴染みのないメーカーだが、主にフランス製自動車のシート生産を手掛けるメーカーでバイクのシートも生産していた。市川の使用するモデルGTiはショーン・ケリーのアドバイスを得て開発されたという。

 

写真提供:市川雅敏
バイク撮影:Kenta Onoguchi
動画制作:コマツトシオ

中田尚志

中田尚志

ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。日本とアメリカの自転車文化に詳しい。