ダミアン・モニエ選手の日本語訳インタビューを紹介

  • photo ダミアン・モニエ、Taiwan KOM

海外自転車メディア「PEZ CYCLING NEWS」に、現在、愛三工業レーシングチームで走るダミアン・モニエ選手のインタビューが掲載された。ジャーナリストのエド・フッド氏とともにインタビュアーを務めたピークス・コーチング・グループの中田尚志氏が日本語版を紹介する。

ライダー・インタビュー : フランス・チャンピオン、グランツールでのステージ優勝経験を経て、アジアへ。

ワールド・ツアーからアジア・ツアーへ彼の20年におよぶキャリアをインタビューしてみよう。

PEZ:“クロノマン“でしたよね。エルビエのTT優勝。そしてU23フランス選手権での4kmパシュート優勝。これらの成績のおかげでコフィディスとの契約に至ったのですか?

ダミアン: U23時代に4kmパシュートと個人TTのフランス選手権で勝ったおかげでコフィディスと契約できました。フランス選手権の後にコフィディスの施設で受けた体力テストの結果が良かったことも契約を後押ししてくれました。

ただプロ入り後は大変な苦労をすることになりました。私は割と小さなサイクリングクラブで競技を始めた為に、ネイションズ・カップのような国際的なロードレースの経験がなかったからです。

PEZ:9年間の長きにわたってコフィディスに在籍されました。良い関係を築けていたのでは?

ネオプロの2年間はいつもサバイバルモードでした。最初の年は45レース走りましたが完走できたのはたった10レースぐらい。タイムトライアルはそこそこ走れましたが、ロードレースがどうにも走れませんでした。プロのロードレースの走法を学び適応する為には時間が必要でした。

苦しんだ2年間の後、コフィディスは契約を更新してくれるか確信を持つことが出来ませんでした。でもDSのエリック・ボワイエがもう1年チャンスを与えてくれたのです。

私は年を追うごとに進歩していきました。それにより都度契約を更新することが出来たのです。結果的にチームとは長い関係になりました。

 

PEZ:チームでの役割はどのようなものでしたか?

チーム内での役割は少しずつ変化していきました。苦労したネオプロの2年間の後は個人TTの能力をロードレースでも活かせるようになってきました。その頃の役割は比較的平坦な場所で逃げに乗ること、もしくは逃げを追うことでした。

更にキャリアを積んで、9kgの減量に成功した後はリーダーを山でアシストする役割に変わりました。その後は自身がリーダーとして走ることになりました。

 

PEZ:エリートでも4kmパシュートのチャンピオンに2度輝いていますね。ワールドカップなどには参加したのですか?

ボルドーで行われたトラック世界選手権で8位に入っています。あと2秒のところでセミファイナル進出はなりませんでした。トラックに取り組んだのはフランス選手権に勝ちたかったのと個人TTの能力を磨く為です。当時のコーチに勧められました。

 

PEZ: 最初のグランツールは’07のヴェルタでした。どんな思い出がありますか?

出場できて嬉しかったですね。無事完走出来たことも嬉しかったです。その頃のヴェルタはグランツールの中で完走するのが最も容易でした。あるステージではコースの全てが高速道路でした。また山岳ステージの間隔は少し空いていたのです。今と違ってね。(笑)

PEZ: ’10年のジロ・デ・イタリアではステージ優勝を成し遂げました。それについて教えて下さい。

山頂ゴールのステージでした。第17ステージですからかなり終盤のレースでした。前日はプラン・デ・コロネでの山岳TTで26位に入り調子の良さを感じていました。

第17ステージではスタートから調子がよく、新城幸也選手を含む17名の逃げに乗りました。1500mの峠を経て1393mのペイヨ・テルミでフィニッシュする設定でした。

最後の登りに若き日のスティーブン・クライスバイクとその日は上手く登りをこなせたスプリンターのダニーロ・ホンドと共に入りました。

勾配が急になるラスト3kmでアタックし単独で逃げ切りました。

あの年、ジロが始まってからコフィディスは、ずっとステージ優勝を求めていました。第17ステージにして我々は遂にそれを成し遂げました。私にとってはプロ初勝利でしたから感慨もひとしおでした。ひと言で表すならインクレディブル!(信じられない!)

PEZ: ‘10年はジロに続いて若いフランス人なら誰もが憧れるツール・ド・フランスに出場されました。

7年のプロ生活を経て、私は総合順位を争える成熟したライダーになっていました。

最初の週が終わった後、チームは不調のレイン・タラマエに変わって私をリーダーにすることを決めました。総合20位前後につけて居たからです。

リーダーとしてレースをするのは初めての経験でした。

チームメートに守られ他の総合を狙う選手と山に入りました。今でも最後のマドレーヌ峠に突入した瞬間を思い出します。

集団にはもう20名ほどしか選手は残っていませんでした。そこからアルベルト・コンタドールやサミー・サンチェス、アンディ・シュレックなどが飛び出していきました。自分が世界のトップで戦っていることを感じる瞬間でした。

しかし、それもつかの間、下りでクラッシュしタイムを失ってしまいました。

最終日パリのシャンゼリゼ通りにフィニッシュする瞬間は誇らしい瞬間でした。でも同時にもっと上手くやれたのでは無いかという感情も生まれましたね。

PEZ: ‘13年チーム・ブリジストン・アンカーへ加入されました。なぜ極東へ向かうことになったのかを教えて下さい。

コフィディスでの最後の2年間、私は健康状態に問題を抱えていました。ヘリコバクター・ピロリ菌によって消化器官の状態が悪かったのです。病気によりリカバリーが遅れいつも疲労感を感じていました。

更に悪いことに‘12年の春先にランドバウト(ローターリー式の交差点)で激しく事故をしてしまったのです。これらの出来事の後、コフィディスは契約を更新してくれませんでした。

そんな時に、古くからの友人で私の地元クレルモン・フェランに住む水谷壮広がブリヂストンを紹介してくれたのです。

PEZ:日本、グアドループ、アルジェリア、フィリピン、インドネシア、クロアチア、イランへの遠征。大変に国際的なレースプログラムですよね –– 世界各国に行くのは好きですか?

はい。チームと世界中を巡るのは楽しいです。各国の文化を見たり、そこでレースをするのが好きですね。

 

PEZ:2016年はツアー・オブ・グアドループで総合優勝 – 素晴らしいリザルトです。

勝ててとても嬉しかったです。; ツアー・オブ・グアドループは2日間のスプリット・ステージ(1日2レース)を含む10日間におよぶ大変に難しいステージレースです。

休養日がありませんでしたし、スタートやホテルまでの移動も長いです。2016年は4度目の挑戦でした。2013年は総合6位。2014年は最終日前日のITTで逆転されて総合2位。2015年は最終日前日に鎖骨骨折しましたが総合2位。

そして2016年、遂に総合優勝したのです!

この勝利は私のキャリアの中で最高のものだと言えます。ツアー・オブ・グアドループは”ミニ・ツール・ド・フランス”と呼ばれています。沿道では大勢の観客が応援してくれますし、上空にはTV中継のヘリが飛び、ラジオ中継もあります。沢山のインタビューを受ける機会にも恵まれました。実は自身唯一のステージレース総合優勝でもあります。

PEZ:現在の所属先は愛三工業レーシングですね。チームについて聞かせて下さい。

愛三工業はトヨタ自動車の関連企業でEFIや燃料供給ポンプを製造しています。チームはアジアツアーや日本国内のレースをメインに走っています。

 

PEZ: 37才ですが、あと何年ぐらい走る予定ですか?

私は今でもレースやトレーニングを愛しています。 情熱は冷めていませんから、まだ選手を続けたいと思っています。ただどうでしょうね。選手市場の状況にもよるのではないでしょうか?

 

PEZ:引退後のことは考えたことはありますか?

長い選手経験がありますし、ツール・ド・フランスからアジア・ツアーまで国際的なレース経験があります。日本語は日常会話をこなせるレベルになりましたし、若く情熱的な日本人サイクリストがワールド・ツアー・レベルにまで成長する手伝いをしてみたいですね。

 

ダミアン・モニエ選手のインスタグラム
https://www.instagram.com/damiendm63/

ダミアン・モニエ選手のトレーニング風景
 https://www.instagram.com/damienmon_bike_travel/?hl=ja

ダミアン・モニエ選手のStrava
https://www.strava.com/athletes/1673838