旧街道じてんしゃ旅 海の中にも旧街道はあった? 冬のとびしま海道をゆく・二日目
目次
ツアーイベント会社(RIDAS/ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画。今回の旅は当連載初の「海の旧街道」。食と海にまつわる歴史を求めていざ行かん。
呉の市街地を発つ
前夜の屋台で浴びるほど酒を飲んだ我々だったが、朝になって目を覚ますと、意外にも気分はすこぶる爽快だった。どうやらシシャチョーも同じらしく、二人とも豪華な朝食をきれいに平らげて、ホテルをあとにした。
「いつもやったら旅の二日目は体が重いんやけどなあ」
「寒空の下、歩いて帰ったのが効いたんでしょうね!」
そんなことを言い合いながら、呉の市街地を抜けていく。ここから旅の出発点、安芸灘大橋まではいわば序章。ウォームアップがてら走り出す区間だ。途中には長いトンネルが控えているが、峠道を選んだ。
ところが、この区間が思いのほか神経を使う。朝の通勤時間と重なったせいか交通量が多く、車道も狭い。ヒヤリとする場面が続き、気が抜けない走行となった。
安芸灘大橋のたもとのコンビニまで走り、ひと息入れたが、正直、市街地の景色が続くこの区間は、旅情という点ではやや味気ない。JR呉駅から仁方駅辺りまで輪行してしまうのも、ひとつの手かもしれない。
いよいよ海の旧街道へ
さて、いよいよ安芸灘とびしま海道の始まりだ。安芸灘大橋のたもとに立ち、島々の方へ目をやる。朝もやの向こうに、これから渡っていく島影が幾重にも重なって見えていた。
思わず足を止め、しばらくその景色を眺める。
山岳風景の描写に「山襞(やまひだ)」という言葉があるが、ここではさしずめ「島襞(しまひだ)」とでも呼びたくなる。瀬戸内の海に浮かぶ島々が、静かに折り重なりながら奥へ奥へと続いていくのだ。
青い空と濃紺の海、その間に架かる白い橋脚。幾層にも連なる島の輪郭。目の前に広がるドラマティックな風景に、旅の高揚感が一気に増してきた。
福島正則が築いた海の宿場町
下蒲刈島は、安芸灘とびしま海道の玄関口にあたる。本州側と上蒲刈島の間は狭い海峡となっており、その少し奥まった入り江に、三之瀬の宿場町がひっそりとある。
三之瀬は、瀬戸内海航路における重要な寄港地として発展した港町だ。江戸時代、この海域は西国と大坂を結ぶ海上交通の大動脈であり、たくさんの船がこの港に立ち寄った。
この三之瀬を「宿場町」として整備したのが、江戸時代初期の大名・福島正則である。関ヶ原の戦いの功績によって広島藩主となった正則は、瀬戸内海の支配を固めるため、島々の交通拠点整備に乗り出した。
折しも徳川幕府は、五街道をはじめとする街道整備を諸藩に命じ、幕藩体制の基盤を築こうとしていた。参勤交代によって大名を江戸へ往復させ、軍事力を分散させると同時に、経済的負担を課すことで財力を消耗させ、幕府への忠誠を保たせたのである。街道整備は、いわばそのための国家的インフラだった。
そして対象は陸路だけではない。海上交通もまた、西国支配の生命線であった。
そこで福島正則は三之瀬に「海駅(うみえき)」を設け、港湾施設を整備したという。なかでも象徴的なのが、船着き場として築かれた長雁木(なががんぎ)である。花崗岩を切り出して港に据えることで、頑強で格調ある船着場が築かれた。
この整備によって三之瀬は、単なる漁村から公的な交通拠点へと性格を変えていく。のちには番所や本陣や茶屋も常備され、西国大名の参勤交代船をはじめ、各国の使節も立ち寄る「海の宿場町」「海の街道」として機能したのだ。
まず一つ目の名所ということで、シシャチョーも興味深そうに辺りを見ている。筆者はというと雁木に打ち寄せる潮の色が美しく、何とか上手く写せないかと何枚もシャッターを切った。
三之瀬御本陣、朝鮮通信使の使節団の資料館である松濤園(しょうとうえん)を見学し、下蒲刈島を後にした。

三之瀬御本陣の建物。陸路の本陣と同じ機能を有していた(広島県呉市下蒲刈町三之瀬31)

蘭島閣美術館(広島県呉市下蒲刈町三之瀬200-1)。横山大観など日本の近代絵画を代表する作品などを展示

朝鮮通信使資料館、陶磁器館、あかりの館、蒲刈島御番所など、さまざまな資料館が揃う松濤園(広島県呉市下蒲刈町三之瀬2277-3/TEL:0823-65-2900)
とびしま海道最大の島をゆく
上蒲刈島に入った。この島はとびしま海道のなかでも最も大きい。とびしま海道は、陸路の旧街道のように、江戸時代に整備された道を行くわけではないので、自動車の走る幹線道路を走ることになる。 場所によっては交通量が多い場所もあるが、それでも島の道は静かなので、かなり遠くから自動車の音が聞こえるので走りやすい。 そして何より島のドライバーの方はうまくサイクリストを避けて走ってくれる。 「思ったより自動車が多いけど人口多いのかな?」と後ろからシシャチョーが言う。 たしかにブルーラインの敷かれている道は、とびしま海道の動脈と言っていい道だ。そこで思い出したように提案してみる。
「以前とびしま海道を走ったときは、ブルーラインどおりじゃなくて時計回りに走ったんですが、本州側の対岸がよく見えて気持ちよかったですよ」
「ほな、それ行きましょ!!」
即決である。
採石所での撮影を済ませた後、次の島に渡る前に、いったん島の北側へ回ってみた。すると予想通り、こちらは交通量がぐっと減り、道も落ち着いている。
やはり島旅は、少しルートを外すだけで空気が変わる。
豊島のマリちゃん
長いスロープ状の道を上り、豊島大橋を越える。渡った先の豊島はこじんまりとした島だ。ここまで来ると自動車の往来もぐっと減り、島旅らしい静けさが戻ってきた。
「迫田さん、腹減りません? あんなに朝飯食ったのに、もう腹へってきましたよ!」
「えぇ!? もう飯の話? アンタまた太るで!」
痛いところを突かれたが、腹が減っているのも事実だ。
「こ、今回は“食の街道”でしょ!! 飯は大事ですよ! どこで食う予定ですか?」
シシャチョーいわく、島の東側にある「マリちゃん」というお好み焼き屋が有名らしい。そう聞いた瞬間、筆者の口の中にソースと青のりの香りが広がった。もう待ちきれない。
島の東側は集落になっている。なるほどこの辺りかと港沿いを探してみるが、マリちゃんはどこにも見当たらない。ふたりして手分けして歩き、路地をのぞき込む。
「スマホの位置情報、狂ってんのかな……」とぼやくシシャチョー。するとベンチに座っていたお年寄りが声をかけてくれた。
「あんたたち、マリちゃん探してるんか? それならこっち!」
案内されたのは、瀬戸内の島らしい細い小径の奥だった。なるほど、これでは見つからないわけだ。
店に入ると、近所の方だろうか、初老の女性たちが数名、席で楽しそうにおしゃべりしている。
「いらっしゃい〜」
女性たちが一斉にこちらに向き、声が飛んできた。
「だ、誰がマリちゃん?」
怯みながら聞くシシャチョー。
「みんなマリちゃんやで!」
すかさずボケを返され、ずっこけるシシャチョー(笑)。
すると奥の方から、本物のマリちゃん、つまり店のオーナーが現れた。勧められるがままに鉄板の前に座り、お好み焼きを注文。すると、それまで座っていた女性たちが急に動き出す。注文を聞き、具材を整え、レモンスライスまで準備してくれる。
「みんな手伝ってくれるんよ」
鉄板にキャベツを乗せながらマリちゃんが笑って言った。なるほどここは、ただのお好み焼き屋ではなく、島のコミュニティそのものなのだ。
「みーんな漁師やったんよ、私ら」
手際よく焼きながら、マリちゃんは突然身の上話をし始める。
「この島から船出して日本海に入って、金沢のほうまでよう漁に出よった。子供も連れてなあ。よう行きよった」
マリちゃんの話にふたりして話に聞き入った。
「子供が4歳になったときから、もう漁には連れていけんくなった。それが悲しいてのう……」
この店を開くまでは、何と漁師だったというマリちゃん。漁業が苦労の多い仕事であることは想像にたやすい。そんな苦労話をお好み焼きを焼きながら笑顔で話してくれる。
出てきた極上のお好み焼きを食べ終わるころには、お腹だけでなく、心まで満たされた気がした。
潮待ち・風待ちの港町
「しかしマリちゃん、おもろかったなあ〜!お好み焼きもうまかった」とシシャチョー。
「しかし迫田さんって、女性をすぐに虜にしますね〜年齢に関わりなく(ニヤリ笑)今回もあの女性たちニコニコしてましたよ!」
「当たり前や!世界中の女性はワシの味方なんや!!!」
「???」
意味不明なことを口走るシシャチョーであった。
夕暮れ近くになって、今回の最終目的地、大崎下島の御手洗(みたらい)地区にたどり着いた。ここは江戸時代に瀬戸内海航路の「潮待ち・風待ち」の港として急速に発展した集落である。
西国から大坂へ向かう商船は、潮流と風向きの変化を待つためこの港に集まり、御手洗はやがて瀬戸内屈指の寄港地となった。大小の商家、茶屋、船宿が混在し、小路が網の目のように巡る構造は、港町そのものの姿を今に残している。
御手洗の繁栄を支えたのは、単なる寄港地としてのにぎわいだけではない。ここには米市場としての重要な役割もあった。特に有名なのが「御手洗相場」で、大坂の相場を見ながら、この港で米の需給が調整されたという。瀬戸内の中継港でありながら、西日本経済の脈動と直結していたのである。御手洗は港町であると同時に、相場の町でもあった。
そして潮待ち・風待ちで船が滞留し、人が留まれば、港町には必ずもう一つの顔が生まれる。御手洗では遊女屋や茶屋が立ち並び、花街としても栄えた。人口五百人余りの町に百人近い遊女がいたという記録もあり、港の経済において遊女屋が大きな比重を占めていたことがわかる。
他の陸路の旧街道の宿場町でも「飯盛女」という、給仕をしながら旅人の夜の相手をする女性が置かれたのは有名な話。現代では考えにくい話だが、往時は旅人と性は切れぬものとして、公認の仕事として、宿場町の機能の一部を担っていたのである。
その御手洗は現在、重要伝統的建造物群保存地区として町並みが保存されている。しかもここは、ありがちなテーマパーク化した保存地区ではない。そこには外観だけではなく今も人々の生活が保たれている。
「これは一見の価値ありやね!井上はん。生活感のある宿場町や!」
「まったくそうですね。海の旧街道、海の宿場町の風情が、ちゃんと残っています」
全国各地の宿場町を旅してきている我々にとっても、久しぶりにみる日本の原風景が残る宿場町だった。二人して何度も何度もシャッターを切り、撮影を重ねた。

御手洗地区の手前にある、みかんメッセージ館では豊町におけるみかん農家のストーリーを学ぶことができる(広島県呉市豊町大長5915-4)

宿の前にある船着場から大崎上島まで下船せずに往復観光する「のっとこクルーズ」は乗船時間30分/370円とお値打ちなエンタメ

本日の宿「ゆたか海の駅とびしま館」。レストラン、ホテル、お土産、地酒、レンタサイクルなどが充実している。4日前までの予約で、刺身、天ぷらなどの夕食提供もしている(広島県呉市豊町大長5992-86/TEL:0823-66-5311)
手つかずの瀬戸内の情景をあとに
翌朝は隣の岡村島まで走り、フェリーに乗って今治へ渡った。旅はここでひと区切りとし、輪行で戻ることにする。
今治は御存じのとおり、サイクリストの聖地・しまなみ海道の四国側の玄関口だ。ここからしまなみ海道へ、さらにゆめしま海道へとつないで旅を続けるのもいいだろう。
今回、「食」と「海の旧街道」という題目で走った呉の街と安芸灘とびしま海道。人気のしまなみ海道とはまた異なる空気が流れていた。
そこには、まだ手つかずの日本の原風景と、島々に息づく人々の生活がある。観光地として整えられすぎていない分だけ、旅人はふとした瞬間に素朴な瀬戸内に出合える。
大挙して訪れるファストライドの舞台というよりも、街や島の成り立ちに思いを寄せ、人々の暮らしを尊重しながらゆっくりと走る。そんなサイクリストにこそ似合う道だと思う。
瀬戸内の島めぐりの旅、そして旧街道じてんしゃ旅は、まだまだ続いていく。

岡村港からフェリーに乗って今治に渡ることにした。岡村港から今治港への乗船料は870円だが、サイクリストは、せとうちサイクルーズPASSを使うと770円になる


























































