ハプニングが盛りだくさんのスペイン・ポルトガル自転車旅【天星の欧州自転車周学 その6】
目次
二十歳の自転車旅人・中村天星さんが、欧州の自転車の道「ユーロヴェロ」を巡る旅の連載シリーズ。第六回は、前回に続きスペインの巡礼の道を走り、ポルトガルからまたスペインを目指す。
はじめに
第六回は前回の第五回に引き続き、スペインの『道』の世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の走破に挑戦中だ。
この道はカミーノ・デ・サンティアゴ(Camino de Santiago)と呼ばれ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブ(サンティアゴ)の墓を目指す巡礼の道の総称だ。
巡礼の道とは、信仰や精神的目的をもって、人々が聖地を目指して歩いた道のことで、日本では四国遍路、熊野古道、お伊勢参りなどが有名だろうか。
カミーノ・デ・サンティアゴは、9世紀ごろから始まった中世ヨーロッパ最大級の巡礼ネットワークで1000年以上の歴史をもつこの文化は、現在は宗教的な巡礼者だけでなく、世界中のチャレンジャーたちが挑戦する世界最大規模の巡礼路となっている。道は1本ではなく、ヨーロッパ全体に網の目のように広がっている。
今回はこれらの道の中でも最も人気で有名と言われている「フランスの道(Camino Francés)」というルートを選択した。フランス・サン=ジャン=ピエ=ド=ポール(Saint-Jean-Pied-de-Port)からゴールのサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの約800kmの道のりを自転車で走破する予定だ。
巡礼の道は欧州自転車道網「ユーロヴェロ」とも深く関わっており、「ユーロヴェロ3」は「フランスの道」に沿う形で道が構成されている。別名「巡礼の道(Pilgrims Route)」と呼ばれ、ノルウェーからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまでを結ぶルートとなっている。
この道の特徴は文化・歴史重視のルート構築になっていること。自然景観だけでなく、宗教建築や旧市街など歴史的巡礼路をなぞる・接続する形で整備されている。
巡礼路や宗教史・中世史に興味がある人や自然+都市+文化をバランスよく楽しみたい人におすすめの道だ。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ到達後は14か国目のポルトガルへ入国。ポルトガルの名前の由来になったとされているポルトガル第二の都市「ポルト」から、ユーラシア大陸最西端「ロカ岬」を通り、首都「リスボン」へ。その後はスペインに戻り、首都「マドリード」を目指した。
日々の旅の様子はInstagramから発信している。ここでは書ききれなかった詳細な道の様子や旅の出会いなども書いているのでぜひフォローしてほしい。普段旅行できない人でも海外旅に出たような気持ちになれるかもしれないし、今後行く予定がある人なら、実用的な情報が盛りだくさんのはずだ。
それでは、第六回の模様を順に見ていこう。
スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州。極寒の中、夏用の装備でテント泊
11月中頃、「フランスの道」を走り始めて数日が経った。

郊外のユーロヴェロの様子。自転車の巡礼者は歩行者と全く同じルートを進めるわけではないので基本的にはユーロヴェロに沿うように進んでいく。バイパスから外れた道を走るので車の交通量は少なく昼間は安全に走行することができた
今まで走行していたパンプローナやブルゴスなどのスペイン北東部から北部にかけての内陸寄りの地域は高地(標高400~900m程度)のため草木が少なく、乾燥した平地や丘陵地が続いていたが、旧レオン王国の首都レオンを通過するとさらに標高は上がっていった。
また、ここ数日は夜はテントで過ごすことが多かった。本来はアルベルゲと呼ばれる巡礼者用の安宿に滞在するのだが、11月に入ると多くのアルベルゲが冬季閉鎖する。
アルベルゲの詳細な料金や仕組み、歴史は前回の記事に載っているので是非そちらも見てほしい。
夕方到着して、こうなってしまうと次のアルベルゲに日暮れまでに辿り着けない。夜の走行は危険なのでどこかでテント泊をすることになる。
幸い、地元の方々も巡礼者のテント泊に慣れているのか、「一晩だけテントを張っても良いか」と相手と土地に対して誠意と礼儀をもって丁寧に尋ねれば、多くの場合、地元の人は彼らの私有地に滞在することの許可をしてくれる。
スペイン国内での野営は法律上禁止または制限されている場合が多い。そのため、野宿をする場合は地元の方に許可をいただいてから泊まろう。
この季節、夜になると0°Cを下回る日が多くなった。7月からスタートした旅のため、軽量化で冬用の装備は持ってきていない。何とかなるだろうと思っていたが、夜は寒さで眠ることができず……僕は冷え性なのか、手足の指先がすぐに冷たくなった。無事に乗り越えられたのは外気を遮れるテントと、ダウンの寝袋があったおかげだろう。
まさに命を救われたと言っても過言ではない。
雪は降らないのだが、全てが凍っていた。自転車やテント、飲料水はもちろん、自分の髪の毛が凍っていたことには驚いた。
幸い翌日はアルベルゲに泊まる事ができた。この宿のホストたちが暖かい食事とベットを与えてくれた。
基本アルベルゲは使い捨てのシーツだけで寝袋で寝るのだが、ここは掛け布団に、毛布まで渡してくれた。
ついに到着‼︎ 800kmの巡礼の道を走破してキリスト教三大聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」へ!
11月上旬にフランス・サンジャンピエトポールを出発して14日目、ついに巡礼の道のゴール「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」に到着した。
巡礼の道では、雨や雪が降る中、凍結した道を進み、1500mを超える山々も上った。
特にこの巡礼で楽しかったと感じたのは人との交流だ。朝から晩まで走り、途中の教会やレストランで巡礼の証明となるスタンプを押してもらう。そこで地元の人々と交流が始まり、そこから彼らの文化を知った。
夜は安宿アルベルゲに泊まり、他の巡礼者との交流がある。世界中から様々な国籍の人が集まり、異なる価値観に触れる。それが新鮮でとても面白かった。
ほとんどの巡礼者は徒歩で彼らは同じペースで進むから徒歩の人たちは連日同じ宿で再会することも多いらしい。
僕は自転車だからほとんどが一期一会の出会いだった。
仕事、家族、生活。彼らそれぞれに巡礼をする理由があり、旅の道のりで自分自身と向き合う。多くの人たちが人生の分岐点でこの巡礼を行う。
一人ひとりの旅路にドラマがあった。彼らはここで人生の次のステップへ進むだろう。
巡礼の旅、最後の夜は世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラの旧市街地」のなかのアルベルゲに泊まり、翌朝「巡礼者事務所」でコンポステラ(巡礼証明書)をゲット。
事前にQRコードで受付を済ませるとスムーズに証明書を受け取れる。
無事に証明書を受け取り、次の目的地ポルトガル・リスボンへ。
その後、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂内を見学。巡礼者だけでなく、観光客などの多くの人で賑わっていた。
ポルトガル入国。第二の都市ポルトへ
11月下旬、ポルトガルに入国。いつも通りシェンゲン協定内の国なので検問所はない。国境は川で隔てられており、ミーニョ川から北がスペイン・ガリシア自治州、南がポルトガルだ。
霧で国境を越えた看板を見つけることはできなかった。
14か国目となったポルトガル。
母語はポルトガル語で地理的にやはりスペイン語に近いらしい。地元の人曰く、読み書きに関してはほとんどが理解できるが、口語は発音が違うから少し難しいのだとか。日本人が中国の漢字の看板を理解できるようなものだろうか。スペイン北西部の公用語ガリシア語は原型がほぼ同じらしく「兄弟言語」と呼ばれている。
通貨はもちろんユーロ。食品や宿泊代などの物価はスペインと近く、ヨーロッパの中では比較的リーズナブルな方。
スペイン入国以降、街のスーパーで海鮮系が売られているのをよく見かけるようになった。ポルトガルも同様、普通のスーパーやディスカウントショップでもよく見かけるが、特にポルトガルでは「バカリャウ(Bacalhau)」 と呼ばれるタラの塩漬けが1尾丸々山のように積み上がっているのが印象的だった。
そしてついにポルトに到着。
ラテン語で「Portus」=港、「Cale」=古代ガリシア系の集落名または地名から“Portus Cale”(ポルトゥス・カレ)、ポルトガル(Portugal)になったのだとか。
まさにポルトガルの特色を色濃く示す都市だ。街中は人と車だらけ。丘陵地でアップダウンが多く自転車レーンがない。旧市街地は石畳なこともあり、サイクリングはしづらい。
ただ丘の上から見るポルトの景色は絶景だった。特に街の中心を流れる大河「ドウロ川」やそれを跨ぐドン・ルイス1世橋、旧市街地の統一された白い壁と赤褐色の屋根は青い空と河とのコントラストでまさに一枚の絵画を見ているようだった。
また、街の聖堂や駅舎には青色のタイル「Azulejos(アズレージョス)」が装飾されている。
語源はアラビア語の「al-zulayj(アル=ズライジュ)」=小さな光る石・磨かれた石。ムスリム文化も取り入れたイベリア半島らしい特徴だろう。
恥ずかしながら、イベリア半島に来る前までは8〜13世紀の今のポルトガルやスペインにムスリムの人々が暮らしていたことを知らなかった。
ユーラシア大陸最西端「ロカ岬」に到達
旅を始めて5か月。12月初旬、ついに西の果て「ロカ岬」に到着した。
この日は天気もよく美しい大西洋が一面に広がっていた。水平線がずっと続いていた。大航海時代以前に生きていたら、確かにこの先には大陸など何もないだろうと思える。
リスボンから東京までは直線距離1万1000km。途方もない距離だ。日本にいた時は地元の港町から当たり前のように太平洋を見ていて、それがこの大西洋までずっと繋がっているのだと思うとなんだか不思議な気持ちになる。
ぼんやりと海を眺めていると、日本語が聞こえてきた。1人2人ではない。たくさんだ。振り返ると日本人の団体ツアーがちょうどロカ岬に到着したところだった。
僕が日本語で彼らに話しかけると彼らはとても驚いた。ユーラシア大陸の最西端で日本人サイクリストに出会うとは思ってもいなかったからだろう。
団体の中の1人の女性が僕に話しかけてきた。彼女もサイクリストでランドナーに乗っているらしい。話を聞くとなんと彼女は来年の6月、友人たちと自転車で巡礼の道を走るらしいのだ。しかも僕が通った「フランスの道」だ。
全くの偶然にお互いにとても驚いた。彼女と意気投合ししばらく会話をする。彼女はとてもバイタリティあふれる人で今まで台湾やイタリアへも自転車旅を行っているらしい。
会話が一通り終わり、出発しようとした時彼女は日本のお菓子をたくさんくれた。5か月ぶりの日本のお菓子。特にようかんがたまらなく美味しかった。
ポルトガルの首都リスボンへ
日本のお菓子でエネルギーをチャージしてリスボンへ。市内沿岸部はサイクルレーンがあり、非常に走りやすい。
世界遺産「ベレンの塔」や「発見のモニュメント」など大航海時代を想起させるような建造物は、まさにポルトガルならではの場所だった。
旧市街地は石畳でやや走りづらい道があるもののサイクルレーンで安全にサイクリングできる箇所もあった。
旧市街地の「コメルシオ広場」はリスボンを代表する大きな広場で広場を囲む黄色の建物とアーチが印象的。
歴史では1755年の大地震で王宮が崩壊した後、その跡地に“国の玄関口”として整備された広場とされている。街でよく見かけた「Tsunami Hazard Zone」はこういった歴史からの防災意識からだろう。
ポルトガルの首都リスボンは前に訪れたポルトガル第二の都市ポルトと同様に丘陵地だった。沿岸部から緩やかな坂道が市街地全体に広がりつつも、この街の名所であるサン・ジョルジェ城やカルモ修道院は小さな丘の上にあるため、道はかなりの傾斜だ。
旧市街地や坂は石畳になっている場所も多く、壊れている場所は大きな穴が開いているところも。道も狭い場所が多かったり、路面電車のレールの溝があったりと細いタイヤでこの場所を走るのは危険だ。僕の自転車は1.5インチを装着しているのだが、タイヤを取られることが何回かあった。
意外かもしれないがヨーロッパの市街地を走るならMTBがいいのかもしれない。実際街中を走っているサイクリストもMTBが多かった。
数日間リスボンの街を見学し、次は東へスペイン・マドリードを目指して移動する。大西洋とはおさらばだ。
スペイン・トレドの病院に緊急受診。原因不明の腹痛に襲われる
ポルトガル・リスボンの街を出発して数日何事もなくスペインに入国し順調にマドリードの街を目指していたとき事件が起こった。
スペインのトリホスという街でテント泊をしていたのだが、夜中寝ている間、ジワジワと下腹部が痛くなり始めた。この時の痛みはまだマシで、当時は「何か体と相性が悪い水か食べ物を食べてしまったのだろう。」と思っていた。旅では時々こうした弱い腹痛におそわれることがあるが、大抵は翌朝に治っている。今回もそのパターンだろうと。今思い返せば、この時の甘い考えが、のちに壮絶な痛みで病院に行くことになってしまった理由だったと反省している。
翌朝、事態は悪化する。我慢できない腹痛で目が覚める。すぐにトイレに行かなければ大変なことになるレベルだ。幸い、昨日テントを張っても良いと許可してくれた方が朝やってきたので、急いで事情を話すと彼女は1番近くのトイレを貸してくれる施設まで案内してくれた。
なんとか間に合った……が常に我慢できない痛みと下痢に襲われた。トイレの個室に入ってから気づけば30分以上も経過していた。施設の人が30分待っても僕が出てこないからと心配になってトイレに確認しに来た。事情を話して落ち着くのを待ってからやっとトイレを出ることができた。僕の顔は日焼けして焦茶色になっているはずなのに、施設の人は僕の顔が真っ白で具合が悪そうだといっていた。
とりあえず症状が落ち着いている間に日本から持ってきた止痢薬を服薬した。今日は40km先のトレドという街に住むサイクリストと会う約束をしていたから、とりあえず自転車を漕げる状態にお腹の状態を抑えなければならなかった。だがこれも後から考えれば腹痛を長引かせた原因だったと思う。
お昼過ぎ、なんとかトレドに到着。途中で今日会う約束をしていたサイクリストが迎えにきてくれた。
その晩、彼らの家にお世話になったのだが、薬の効果が切れてからは一晩中トイレから離れることができず、一睡もできなかった。
翌朝、一向に状態が良くならならなかったのでついに病院に行くことを決断した。僕の状態を聞いた彼は病院まで車で送ってくれただけでなく、スペイン語が話せない僕の通訳をしてくれた。
彼のおかげでサクサクと話も進みすぐに診療してもらえた。診断の結果、ウイルス性の胃腸炎だった。原因の特定はできなかったが、数時間さまざまな点滴を打ったおかげで治療後はかなり症状は改善した。
病院からの帰りもマリオは車で送ってくれた。車内でどうしてこんなに面倒を見てくれるのかと聞くとどうやら彼も2週間前に全く同じ症状になったらしく、その痛みと辛さが良くわかるから助けになりたいと教えてくれた。彼の親切には本当に感謝しかない。
マドリードに到着!
トレドで数日過ごした後、スペインの首都マドリードへ向かった。今回マドリードは2日のみの滞在となった。
理由は一度日本へ戻るため。またマドリードに来るからだ。自転車は知り合いの紹介で預かってくださる方が見つかり、装備は持ち帰ることにした。今の夏用の装備を冬用に変更するためだ。
荷物は下のように段ボール箱にまとめた。サイズと重量は各航空会社の規定に従って欲しい。今回の会社は3辺の合計が158cm以内で23kg以下が2箱までだったが僕の荷物は18kg程度に収まった。
ただこの段ボール箱はペラペラでかなり柔らかく破れそうだったので、空港のラッピングショップでラッピングしてもらった(10ユーロ)。
最後に
次の旅はマドリードからアフリカ大陸へ向かう予定だ。今まではツーリングスタイルでずっしりと長旅向けの装備だったが、次はややバイクパッキングに寄せた装備で1日あたりの走行距離を伸ばしつつ、エネルギーを温存するためだ。冬用の装備は夏に比べて量が増えるが、これまでの経験を踏まえて最低限に抑えることで、前回よりも軽量にする予定だ。
・費用
今回は旅をしていた当時の1ユーロ=182円で計算した。(期間は11/20〜12/10)
・宿泊費
宿泊地は基本的にはテント泊だが、スペインはアルベルゲ、ポルトガルのポルトやリスボンなどの都市部ではホステルを利用した。また、各地で家に泊めてくださる方がいらっしゃった。
(約2万円)
・食費
基本的に自炊。しかしホストしてくださった方がご馳走してくださることもあった。
(約1万7500円)
・交通費
ポルトやリスボンなどでは数日間滞在しその間は自転車をホステル内に置いて電車やバスで観光することもあった。
(約1000円)
・観光費
各地の遺産や博物館へ入場する時の入場料。
(約7500円)















































