旧街道じてんしゃ旅 日本の原風景を巡る〜明日香と土佐街道〜
目次
ツアーイベント会社(RIDAS/ライダス)の経営者(井上 寿。通称“テンチョー”)と自転車メディア・サイクルスポーツの責任者(八重洲出版・迫田賢一。通称“シシャチョー”)の男2人、“令和のやじきた”が旧街道を自転車で巡る旅企画。今回の旅は奈良県明日香村と土佐街道。古代文化の香り豊かな郷、いざ歴史の旅へ。
人との出会いがこの旅の魅力
自転車の旅の大きな効用のひとつに、デジタルデトックスがある。スマートフォンが現代生活において必需品となって久しいが、ながらスマホや注意散漫になるなど、その弊害が声高に語られているのも周知の事実だ。
電車や飛行機、バス、タクシーといった他の旅の手段では、移動中にどうしてもスマートフォンへ視線を落としてしまうだろう。せっかく「非日常」を楽しむために旅へ出たのに、画面を開いた瞬間、「日常」に引き戻されてしまうのだ。
一方で、自転車の旅は移動そのものが目的化する。走行中はもちろん画面を見ることはできず、強制的にスマートフォンを手放すことになり、自然と周囲へと視線が向く。すると、空気の流れや草木の匂い、道端の情景、そして土地の人との会話など、「五感」が呼び覚まされるのだ。
そしてそれは、訪れる側だけの効用ではない。訪問地の人々が目に入れば、自ずと視線が合い、会話と触れ合いが生まれる。その眼差しや会話こそが、自転車の旅がもたらすかけがえのない贈り物だと思う。
ところで、その触れ合いや会話の達人といえばシシャチョーこと迫田さんである。とにかく訪問地の人と次々に仲良くなってしまう。筆者も人と会話するのは得意なほうだと自負しているが、迫田さんのそれは頭ひとつ抜けている。初対面にもかかわらず、まるで昔からの知り合いのように、独特の関西弁で唐突に話しかける。相手もその空気にのまれ、気づけば笑顔。目が合った瞬間にはもう会話が始まっているのだから恐れ入る。
ただし対象が女性となると、相手の都合を顧みずグイグイと迫っていくのが困りものだ。お決まりの強烈なおやじギャグを放ち、相手を放心状態にさせてしまう。もし相手が応じようものなら、調子に乗って下ネタまで飛び出す始末。今はややこしい時代なのだからと筆者が注意しても、止まらない。だから女性と出会うたび、筆者はいつも横でヒヤヒヤしている。
ところが歳上の女性を前にすると、迫田さんは驚くほど大人しい。山の辺の道で出会った茶店の女将さんのときもそうだった。話しかけはするが、おやじギャグは控え、むしろ聞き役に回る。やがて相手が饒舌になると、さりげなく褒め言葉を差し込んで相手を喜ばせる。別れ際には「また来ます!」と満面の笑みでさっそうと去っていく。その姿はまるで港を後にする船乗りのようだ。
桜井で一泊した宿でも同じだった。女将さんと出発間際まで長々と話し、記念撮影をし、握手までしている。宿を出て信号待ちをしていたとき、ふと振り返り女将さんに手を振ると、女将さんも名残惜しそうに見送っていた。
まったく、この人は「生来の人たらし」だと確信せざるをえない。だが思うに、こうした触れ合いこそが、旧街道じてんしゃ旅のエッセンスなのだ。

歳上の女性と話す機会が多いシシャチョー。女将さんの笑顔に終始照れ気味だった。
皆花楼(奈良県桜井市桜井202/TEL:0744-42-2016)
次の旧街道へ想いをはせる
さて、肝心の旅の話。
旅館の女将さんから「桜井の地は、かつて伊勢街道(旧初瀬街道)を通ってお伊勢参りに向かう人々でにぎわった」と聞き、その追分(街道の分岐点)まで足を伸ばすことにした。今日の目的地であると明日香と土佐街道までは、どうしても幹線道路を淡々と進むしかない。ならばその前に、少しでも旧街道の空気を味わっておこう、そんな気持ちで旧初瀬(はせ)街道をたどることにしたのだ。
旧初瀬街道は山へ向かって緩やかな上りが続き、やがて長谷寺の門前町へと導かれる。道の両脇には古民家が軒を連ね、往時の面影を色濃く残している。
「井上はん、この道はまたちゃんと走らないとあきませんなあ!」
「確かに。伊勢へ向かう街道はたくさんありますから、走りがいがありますね!」
追分に立ち、古い道標を眺め、そこから延びていく別の旧街道を想像する。これも旧街道じてんしゃ旅の楽しさの一つだ。今走っている道が次の旅へと自然につながっていく。
追分で撮影をすませ、明日香の地にハンドルを向けた。

途中で立ち寄った飛鳥資料館(奈良県高市郡明日香村奥山601/TEL:0744-54-3561)
古代史の舞台、日本の原風景をゆく
奈良によくある、狭い幹線道路を抜け、暑さしのぎに、幾たびか止まりながら明日香に着いた。この古代史の舞台である明日香を走る「日本の原風景じてんしゃ旅」が今日の目的だ。
ここは私が経営しているサイクリングツアー会社でも人気の土地。いつものツアーコースどおりシシャチョー迫田さんを案内することにした。
まず立ち寄ったのがキトラ古墳。この古墳の発見は大ニュースだったのを覚えている。ファイバースコープで石棺の中を調べたところ、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が描かれた壁画を発見したのだ。この出来事は鮮明に覚えている。
「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」に立ち寄ってみる。古代史にはあまり興味がないと言っていたシシャチョー迫田さんだったが、館内では食い入るように展示に見入っていた。建物の隣には実際のキトラ古墳が公開されており、古墳そのものを間近に見ることができる。これには思わず息を呑む。
「教科書で習ったものにはほとんど興味なかったんやけど、こうして実物を目の前で見ると全然印象が違いますなあ……」とシシャチョー。まさに、学校で覚えた歴史と、現地にて肌で触れる歴史とでは、体験そのものが別物なのだと実感する瞬間だった。

キトラ古墳の詳細を展示する四神の館を訪ねる。残念ながら常設展は工事中だった。
キトラ古墳壁画体験館 四神の館(奈良県高市郡明日香村阿部山67−67/TEL:0744-54-5105)
見晴らしの丘という眺望のよい場所を細い道を通って上っていく。この周囲にも歴史に名だたる人物を祀った寺や遺跡が物静かに鎮座している。それはまるで近所の寺や神社のようにひっそりとだ。しかしそこも教科書に出てくる有名な名前の人物を祀っているのだ。
極め付けは高松塚古墳だった。それこそ昭和の大発見とういうことで学校でも習った遺跡だ。色鮮やかな女子群像の壁画を教科書で見たことがある読者も多いことだろう。そしてこの高松塚古墳もまるで公園のような整備をされている。手を伸ばせば届くぐらいのものだ。
明日香の魅力は、こうした歴史的遺跡が驚くほど近接して点在していることにある。少し高台に上って見渡せば、いくつもの古墳や寺院跡が同じ視野に収まるほどだ。だからこそ、自動車やオートバイよりも、徒歩や自転車で巡るのがふさわしい。実際にロードバイクやクロスバイクだけでなく、一般的なレンタサイクルの姿も数多く見られる。マニアだけでなく、誰もが楽しめる「本来のサイクルツーリズム」がここには根づいている。
静かで静謐(せいひつ)な明日香の風景には、エンジンの轟音よりも、ペダルを回す音のほうがよく似合う。
普段とは違う疲労感を味わう
蘇我馬子の墳墓と伝わる石舞台古墳を見終えたころには、相変わらず気温も湿度も高く、汗が止まらなくなってきた。
「井上はん、ちょっと疲れたわ」
珍しくシシャチョーが弱音を漏らす。確かに昨日に続いての炎天下、熱中症が心配になるほどの暑さである。走行距離はまだわずか10kmほどなのに、すでに二時間が経っていた。
「少し寄り道しましょうか」
そう提案して向かったのは、平成になってから発見された「酒船石遺跡」。古代史好きなら一度は訪ねてみたい場所だ。石段を登りたどり着くと、不思議な石造物が静かに横たわっている。ところが、さっきまで目を輝かせていたシシャチョーは、今度はすっかり興味を失ってしまったようだ。炎天下の坂道に、体力を奪われたのかもしれない。
「ここにレストランがありますから、入りましょう」
そう声をかけて昼食にする。冷房の効いた館内で、ひと息ついたあとは不思議なもので、昨日と同じように体力が戻り、再び元気よくペダルを踏めるようになった。

食事処が少ない明日香。石舞台横のレストランで古代米カレーをいただいた。
農村レストラン 夢市茶屋(奈良県高市郡明日香村島庄154−3/TEL:0744-54-9450)
「井上はん、明日香のサイクリングは、大人の社会見学旅行的なサイクリングやな……そう思ったらグイグイ走る疲労感とはまた違う心地よさかもしれんね!」
シシャチョーの一言が腑に落ちた。
明日香のサイクリングは、速さや距離を競うものではない。むしろ「移動そのもの」が目的となる。のどかな風景に身を委ねながら、しかし意外なほどアップダウンが多く、何度も自転車を降りては押し、またこぎ出す。確かにその繰り返しが、普段のサイクリングとは違う疲労感をもたらすのだ。それを理解してペダルを踏むことで、明日香の地ならではのサイクリングの楽しみ方が分かってくるのかもしれない。それに気づいたのはすでに旅の終わりに近づいた頃だった。
終点の近鉄飛鳥駅へ向かう道すがら、青々と広がる田んぼの風景が胸にしみてきた。景観に配慮された明日香の地では、何気ない田畑の風景さえ美しく見える。
祝戸(いわいど)の丘の登りで目に飛び込んでくる棚田の曲線、その先の土佐街道の落ち着いた家並み。
そして旅の終わりに、古代のロマンが現代に蘇る明日香の地だからこそ、そして自転車だからこそ味わえた時間を思い出しつつ帰路についた。

































