新城幸也×Volvo「未来のロードレーサーのための特別講座」レポート後編

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2025年7月5日(土)、プロサイクルロードレース選手、新城幸也のトークイベントが、東京・港区のVolvo Studio Tokyo(ボルボスタジオ東京)で開催され、その中で新城選手による「未来のロードレーサーのための特別講座」がサイクルスポーツ企画のもと行われた。

当日は、小学生、中学生レーサーからの様々な質問に新城選手が詳しく答えてくれたので、その後編をお届けしよう。

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

 

新城選手について

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

●新城選手とボルボ

ボルボ・カー・ジャパンのPRマネージャー、赤堀淳さんの司会で、帰国中の新城幸也選手のトークイベントが始まった。

新城選手が日本でレースを走るときになぜかボルボに乗っているな、というのを知っている方、と手を挙げてもらったら、と尋ねたら、かなりの数の人が手を挙げた。「15年くらいのお付き合いになりますね」と赤堀さん。

Bboxブイグテレコム時代のチームカーがボルボで、その縁で「日本でレースをするときボルボを貸してもらえないか」という依頼があった。赤堀さん自身、「自転車選手本人から貸して欲しいという依頼自体が珍しいなと思い、お会いしてみたらびっくりするくらいすごい好青年だった」と感じたことから貸し出すことへ繋がり、それからほぼ毎年、日本でレースがあるときは貸しているとのこと。

「最近は電気自動車をお貸ししています」との赤堀さんの振りに答えてユキヤは「皆さん不安もあると思うんですけど、体験してみるとすごくいい」と話し始めた。「自転車に乗る方はわかると思うんですけど、緩〜い坂を漕いでいるときに、少しでも力を緩めるとスピードが落ちる。アクセル具合は、緩めるとスピードは落ちて、踏むと上がる。ワンペダルっていうんですか、あれが楽しいというかわかりやすい。自転車と一緒で頑張れば進むし、緩めれば落ちるしで、調整がしやすい。普通のオートマだと離しても同じスピードで進むのですが、電気だとそうじゃなくて回生がかかるので、僕として自転車の感覚と一緒なので、乗りやすい。運転したらファンになりました」とコメントしてくれた。

 

 

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

●久しぶりに日本のレースをたっぷり

チームを代わればこんなに走るレースも変わる。自分自身も驚いているというか戸惑っているというか。2009年からヨーロッパで走っているので、懐かしいのとレースが変わっているのと、改めて歳を取っても新しい経験をさせてもらっているなと思います。

ワールドチームに所属していると、日本のレースは年間1レースしか走ることができない。ジャパンカップですね。今年は1つ下のプロチームというカテゴリーに入ったことで、ツール・ド・熊野、ツアー・オブ・ジャパン、来週にある東京・多摩ロード、10月にまたツールド九州、いろんなレースが日本でも走れるようになって、なおかつアジアでもツール・ド・タイランドだったり台湾だったり、マレーシアだったり、いろんなレースに行ける。

僕自身、ヨーロッパでほとんどのレースを走ってきましたが、アジアのレースはあまり走ったことがない。キャリアの最後のほうでいろんなレースが走れるのは楽しいですね。そして皆さんに会場に来て喜んでもらえるのは僕にも励みになります。

 

 

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

photo:新城るみこさん提供

●幼少期から渡仏までのストーリー

中・高とハンドボールをやっていて、同級生と大学へ進学して「僕が高校の先生、じゃあオレが中学の先生、こっちが小学校の先生になって、みんなで石垣でハンドボールを教えよう」という人生設計をしていた。まさか自分が大学に落ちるとは思っていなくて、受験で名前を書くところを間違えたんじゃないかと思うくらいです。

でもその失敗があったからオリンピックに行けてツール・ド・フランスにも出られて、違う人生になった。 小学2年生のときに福島晋一選手が石垣島に来た。これも運命です。福島選手は信州大学の大学生だったのですが、ご両親が沖縄に転勤していて、沖縄での国体予選に僕の父も走っていて、同じ時に先頭から遅れた。父が「キミ強かったね、石垣に遊びに来なよ」と誘ったんです。

高校3年生のとき、すでにヨーロッパで走っていた福島晋一、康司兄弟が石垣に遊びに来てくれて、自転車に乗った。これは有名な話ですが、上り坂で相手はプロですから追いつけるわけもなく、でも僕も最後までもがき切った。普通、上りで置いていかれたら踏みやめるじゃないですか。そこで福島選手から僕の父に「自転車の才能があるから、ヨーロッパに連れて行きたい」と話があった。

そのときは大学受験の結果待ちで、全部結果がきて、やることがなくなった、どうしようかなと思った時に、福島選手に「自転車ってキツいですか?」とメールしてみた。「キツいんだけど、自転車はいろんな人に応援されてやりがいがあるスポーツだよ」と返ってきた。そして「やります」と返事をして、福島選手が飛行機のチケットを送ってくれた。

そしてフランスに渡ったのは忘れもしない2003年4月1日のことです。 初めて大学受験で東京に行ったときも外国に行った気分だったから、受験で大学に行くのもフランスに行くのも大冒険だった。大学受験に失敗してよかっなとは言えないけれど、失敗したからこそこの人生がある。

 

 

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

●フランス語はどうやって覚えたか

福島晋一、康司兄弟と一緒に滞在した先が農家だった。携帯もないし、チームメイトともひと言ひと言を辞書で引いて話すしかない。 一番は現在形、過去形、未来形がそれだけ話せればと、定型文を覚えました。今のことと昨日のことと明日のことがしゃべれれば、ある程度会話が成り立つ。あとは単語を少しずつ覚えていきました。

滞在先では母屋のお母さんと珈琲を飲むように言われました。飲みに行かないと「なんで今日来ないの」と怒られるんです。「今日はいい天気だね」と話して、家中連れていってもらって、これはトイレットペーパーだ、玉子は1個で何ていうか、全部教えてくれた。

レースに出ても、その頃は日本人という感じじゃなかったので、「おい中国人」と言われたら、相手がフランス人とわかっていても「おいベルギー人」と言ってやるんです。しゃべらないと友達になれない。

その頃はインターネットでのレースの申し込みじゃないんですよ。主催者に電話して「アラシロです、レースに出ます」とフランス語で言わなきゃいけない。電話では発音とか間違えられない。 だから僕は通訳ができないんです、日本語のボキャブラリーが少なすぎて。こう言われたらこう答えると覚えなさい、と言われたので、会話はできるけど、日本語に置き換えていると遅くなる。感覚で覚えました。100%フランス語というのがよかったんだと思います。

 

 

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

●ケガからの復活

一番最初にケガをしたのが手首でした。それがロンドン五輪の年で、その頃は全日本選手権に出ないと五輪に選んでもらえず、その全日本が2カ月後だった。手首を折って、いろんな人に聞いて治療に行って、全日本に間に合わせた。 大腿骨を折ったのは(ツアー・オブ)カタールに行ったときで、帰ってきたらリオデジャネイロ五輪の代表発表の記者会見だったんです。もうそのときは出場は決まっていて、会見では松葉杖を突きながら「オリンピックは頑張ります」と言った。

ケガの治療は、ケガをした人に聞くのが一番。いろんな、これをやった、あれをやったを聞いて回りました。いろいろと試して、もちろん人に合う、合わないはあると思うんですけど、ミトコンドリアを増やす機械とか、炭酸水のお風呂に入ってリカバリーするとか、そういうのから全部試してみました。

 

 

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

●アンドラ公国に住む理由

アンドラに引っ越したのはコロナの後だから2021年、もう4年くらいになりますね。最高です。住んでるのは街中なんですけど、街中で全部が揃う。クルマが必要なくて、歩いて全部用が済む。 練習はすぐそこが山なので、家からすぐトレーニングを始められる。山の間なのにすごく天候が一定で、1日雨が降っても次の日はもう晴れる。

寒い1月などはスペインの方までいけば5度くらいは温度が上がるし、暑い日は山に上がれば気温は下がるので、練習し放題です。

 

●アンチドーピングコントロールの話

僕らは居場所情報をインターネット上で報告する義務があります。居場所情報を朝の5時から夜の11時までの間に1時間「私はここにいます」という住所を書かなければいけない。ホテルだったら何ホテルの何号室に、と書きます。そこに1時間は必ずいて下さいねというものなので、僕はだいたい朝の6時、7時とかにホテルだったり自分の家の住所を登録するんですが、それをもし間違えて他のところを登録していて自分の家に帰っていたり、ホテルを違うホテルに変えたりすると、そこに検査官が来てしまうと「そこにいなかった」ということで×が1回つく。それが3回続くと、4年間の出場停止になります。普通にドーピングしたのと同じなので。

しかも時間外検査というのもあるので、実質24時間(居場所確認)なんです。(コアタイムを)6時7時にしていても、夜の8時に来る場合がある。もし誰かの結婚式に出るとか、レストランに行くとかがあると、そこも入れておかないと、違反になってしまう。

検査は日本だと、国内のアンチドーピング機構のJADAだけですが、自転車のUCI、世界のWADA、ITAというのもあって、団体がそれぞれ違うので今日検査したのにまた検査が来ることがある。全然コラボレートしていない(笑)。

今年、2カ月タイにいたのですが、2回来ました。ノイさん(合宿しているバンガローのオーナー中川茂さんの奥さん)が「何かあの人、変だよ。ずっと外にいる」と言っていて、外にいる人を「変な人だ、変な人だ」と。晩ご飯を終えて片付けをしていたら入ってきて、「ミスターアラシロ?」と聞かれサインでも欲しいのかなと思ったらドーピングコントロールだった。

日本でも検査が来ます。僕の場合はドイツからとか韓国からとか、日本人が逆に来ないです。ずっと英語でしゃべっているので正確にはわかりませんが、もしかしたらその人は日本で他の国際大会があって1カ月とか来日していて、行ってくれと言われて来ているのかもしれない。 もしかすると明日、ホテルに来るかもしれませんねという問いかけに「今日これからJスポーツの収録で夜遅いので、頼むから明日の朝は来てほしくないですね」と笑いを誘った。

 

新城選手への質問コーナー

未来のロードレーサーのための特別講座 後編

Q:レースに出ていて怖いなと思う瞬間、嬉しいなと思う瞬間があれば教えて下さい。

A:「怖いな」は日常です。皆さんが見ている映像で、集団で下りを固まって走っているじゃないですか、もう本当に怖いです。平坦でもそうです。行くところがないので、「頼むからなにも起こらないでくれ」と思うのは、全レース一緒ですね。

ふと我に返ると、よくそんなところを走っていたなと思うのですが、それはレースに集中しているからであって、集中できなくなったらレースをやめたほうがいいかなと思います。 練習で雨の日のパベ(石畳)を走ると、すごく滑るんですよ。だけどレースだと走っている。どうやって走ったのかなと思うけれど、自分がやったという感じはなくて、本能というか、それが働いているうちは怖くないのですが、我に返ると(上の方から自分を見ているもう一人の自分の目線で)大丈夫か? と思います。

嬉しいのはやっぱり勝ったときですね。今は自分のために走っているというよりはチームのために走っているので、チームの誰かが勝ったときは嬉しいですし、やっぱり勝利は格別ですね。

 

Q:ご自身のバイクのフィッティングについて教えてください。

A:今年は8年振りに新しく違う自転車になったので自分でポジションを出しました。今は誰もフィッティングしてもらえなくて自分でやっているんですが、昔からだいたい数字は変わっていません、たぶん2010年くらいから変わっていないと思います。

メーカーが変わることで、ヘッド部の高さとか、もうこれ以上(ステムを)下げられないとかはあるんですけれど、基本のポジションは一緒で、いまだに172.5mmのクランクを使っていて、流行とは逆を行っています(笑)。ハンドル幅も400mmを使っているし、(狭いハンドルは)それが計算上速いと言われていますけど、20年以上このポジションでやってきているので、ちょっと変える勇気がないですね。

僕がポジションで何を一番大事にしているかと言うと、スプリンターだったらスプリントしたときに一番力が入るポジションだと思う、僕は「我慢できるポジション」なんです。何かに特化しているんじゃなくて、ペースが上がったときに我慢できるポジション、同じ出力を常に出し続けられるポジションですね、攻撃的じゃなくて。

フィッティングの際にどのくらいの寸法で動かすかというと、基本的に1mm、2mmしかいじらないです、これくらい長く自転車選手をやっていると、それくらいの差が大きいんですよ。たかが1mmですが、クリートが目盛りは一緒かもしれないけれど、その感覚が自分ではあるので、そこがズレると気持ちよくないんです。ちょっとズレていると気持ち悪いんです、何十年も走っているポジションなので。なのでそこにハマっていきます。

ポジションをコロコロ変える人がいると思うんですが、自分の体も日々変化しているし、今日はハムストリングが固いかもしれないけど、明日はハムが柔らかくなったりとか、そういう小さな違和感が出てくるのですが、自分がパフォーマンスを出したときのあの感覚を覚えていれば、そこのポジションに戻ってくるんです。

 

Q:3週間のレースを走るための疲労回復について教えてください。

A:その日のトレーニングの終わりから、次の日のリカバリーに入っています。お腹が空いたままその日を終えないことです。1日の練習の終わりにもちゃんと炭水化物を摂って終わる。1時間おきに何グラムの炭水化物を摂るというのは、パフォーマンスを落とさないことと同時に次の日の回復にも繋がっているので、練習を終わったレースを終わった瞬間から次の日のリカバリーの準備にかかっている。取り過ぎたら体重が増えちゃうので、必要な分だけ摂る。

それから、僕の場合はよく寝ることですね。 あとは、無駄に歩かない。僕らはレースが終わってバスがホテルに着いたら部屋まで移動して、シャワーもバスで済ませているのでベッドの上に。マッサージの時間が来たらマッサージに行ってまたベッドに戻ってきて、夕食に行って、またベッドに戻って次の日の朝までベッド。ほとんど歩くことはない。極力、すべてを回復に使うんです。

 

Q:日本人が今後世界で戦うためにどうしたらいいか。

A:それこそ日本の自転車界の悩みですね、みんなが思っている大きな課題です。 今中さんがツールドフランスに出場して13年後に僕らが出場して、僕がツールに出なくなってもう7年経ったので、あっという間に次の13年が来てしまう。

僕が思っていることが正しいのかはわからないけれど、僕が強くなったのは浅田(顕)さんのチームでヨーロッパを目指して、「日本人だけでツールに出るぞ!」と言って、そのためには何が必要なのか、ずっと同じ宿舎でみんなで悩みながら、そしてレースに出たら惨敗して、それを繰り返して、でも常に挑戦しづけてきた。

僕がそのタイミングでチームに入ったので、すべて日本語で教えてもらった。練習も引っ張ってもらい、僕が若いのにレースでは僕のためにアシストしてもらったり、どんどん回りの選手から助けてもらって強くなった。そんなチームが日本には今、ない。

エキップアサダがなくなるタイミングで僕が成績を出せていたので、ヨーロッパのチームに行けた。でもヨーロッパのチームに行っても準備ができていなければ通用しないんです。僕らがコンチネンタルチームで3年やっていたときに、ちゃんと日本人で、グランツールで通用するような準備をしていた。そういう環境が日本の中にはないので、もう一度そういうチームが現れれば可能性はあるのかなと。

僕自身、日本人に合ったトレーニングはあると思うんです。ヨーロッパ流のトレーニングもいいですけれど、僕がタイにトレーニングに行く理由はそこにある。僕はタイに行って強くなったので、タイ流のトレーニングを忘れないようにしている。

今年、僕が日本のレースをいろいろ走って思うことは、日本の選手は、データ上の力は僕よりある。だけどレースの仕方がヘタだったり、自分の成績を出すための走りをしていないと感じる。成績を出さないと次のステップに行けない。いくらアシストをしてそのチームの中で評価されても、回りのチームから引っ張ってもらえるまではいかない。もっと日本の選手がわかっていないことを教えたい。

僕自身も何をやったらいいかわからないけれど、僕が強くなったのは回りの人のおかげ、全部いいタイミングで引っ張ってもらったおかげで、そういうチャンスがもう一度来ないかなと思っています。

 

 

新城幸也×Volvoスペシャルトークイベント「未来のロードレーサーのための特別講座」

日程:2025年7月5日(土)

場所:ボルボスタジオ東京(東京都港区南青山3-1-34 3rd MINAMI AOYAMA)

イベント詳細

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