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日本人レーサーインタビューから2017年を振り返る part2

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今年も残すところあと数時間。今年もさまざまなことがあった自転車レース界。2017年シーズンを終えた選手たちの想いを語ってもらった。
part2では、宇都宮ブリッツェンを退団する鈴木真理選手、2017年シーズンで引退を決めたブリヂストンアンカーサイクリングチームの西薗良太選手、面手利輝選手にもその胸の内を聞いた。(text&photo:滝沢佳奈子)

 

2017年で宇都宮ブリッツェンを退団する鈴木真理(宇都宮ブリッツェン)

Q:今年で宇都宮ブリッツェン退団ということですが、ブリッツェンでの選手生活を振り返っていただけますか。
A:いい勉強にもなったし、こうやってファンの人たちに盛り上げてもらえるチームって少ないので、いい経験になりました。楽しかったです。


Q:選手を始めてから走り方や精神的なものはどう変わってきましたか?
A:はじめは遊びで、全盛期は遊びじゃなく、エース争いじゃないですけどピリピリしてたし、言うこともビッグマウスだし。そのあとは選手を育てたいっていう自分のやりたいことを形にしていくことで、精神的に落ち着いてきました。バリバリエースの時よりは穏やかになったし。


Q:切り替わったポイントはどこだったんでしょうか?
A:2004年にシマノでオリンピックとかアジア選手権とか全部出て、優勝回数も重ねて、なんとかヨーロッパでやりたいって言って2005年にブリヂストンアンカーに行ったんですね。そこでヨーロッパへ行って、怪我に悩まされたりして、契約更新が厳しくなってきて……。そこで栗村さんに相談して。そのあたりで選手としては気持ち的に切れてる感じですね。2006年からは若い選手とかを面倒みたりとか、バリバリエースの座を争ったりっていうのは無くなっちゃいましたね。

 


Q:ブリッツェンのキャプテンとして就任するときも若手を育成する目的だったんでしょうか?
A:2006年からずっとですね。甘っちょろい若手を変えたいっていう思いで。


Q:どう甘っちょろかったですか?
A:貪欲ではなかったりだとか、最初からエースが回ってくると思っているような子が多かったので、奪うものじゃないですけど、強くないとエースは回ってこないんだよということを教えたかったですね。


Q:ブリッツェンに5年間所属して、どう育成ができたと思いますか?
A:ちょっとブレた気持ちがありまして、(真理選手自身が)勝ってくださいっていうのが多くなってきて、僕が勝たなくちゃって思うことも多かったんですね。そういうところで自分の気持ちが若干ブレてきたところがあって、今となってはもったいなかったな、と。中途半端すぎて。勝つんだったら昔のように貪欲に、でも35(歳)になってガシガシはいけなかったので、僕じゃなくて育てる方向でっていうのを言い聞かせながらやらなくちゃいけなかったですね。


Q:ガツガツやっていた時は、真理選手がもともと持っていたものを発揮していたのか、後天的に身についたものだったのか、どちらだったんでしょうか?
A:簡単に言ったら子供ですよ。子供は勝ちたければ無理やりにでも勝ちに行くじゃないですか。悔しかったらワガママ言って。もうそれですね。それが直結お金になるので、やっぱり稼ぎたいし、できることならみんな俺のアシストしてくれ!みたいな。でもそれを力で示さなくちゃいけないんで。


Q:TOJのステージを勝つというのが最近ではかなり夢物語のようになってきていますが、勝ち切るメンタルはどうやって養っていたんでしょうか?
A:メンタルというか、物事をあんまり深く考えないタイプだったので、そういうところもいろいろ功を奏したのか……。今はやっぱり、先のことをいろいろ考えて行動しちゃったりしますけど。


Q:若手選手はそういう方が多いのではないでしょうか?
A:多いですね。”出来の良い子”が多いっていうんですかね。そういう人をどう伸ばしていくかっていうのが今度は課題になってくると思います。


Q:できればガツガツ来るような選手にきてほしいですか?
A:その方が簡単ですよね。周りがそれに慣れないとケンカになるので、それを調節するのがコーチの役目だったりするから。でもそういう選手は大切にしたいし、もっともっと調子こかしてあげたい。調子に乗るタイプの方がやりやすいですね。


Q:2018年からTRUTH PROJECTを立ち上げるとのことでしたが、どういう活動をやっていくのでしょうか?
A:まず絶対的なものは、ステラとブラウの練習の組み立てです。今までは練習一緒にしてあげたりしてたんですけど、そこは一旦縮小して、練習のマネジメントくらいにして、一番の目的は、強い選手を集めたチームですね。自分のチームなんだけれども、チームでレースに出るわけではなく、僕のチームに入ることで強くなれて、最終的には強い人しか入れないようにしたい。その辺りはまだ考え中なんですけど、スポンサーがたくさんつけば本当に強い人しか全く取らないです。例えばブリッツェンの選手も入れる。シマノの選手も見てほしいって言えば、シマノの選手も見る。チームの垣根をなくして、(見込みのある)強い人・強くなりたい人を見て、いろんなチームの人を集めた『チーム真理』みたいなのを作りたい。


Q:スクールのような感じでしょうか?
A:そうですね。そこでさらに強くなるっていうのを考えています。プロでもある程度月謝は取って。スポンサーがつけば人数を減らせるんですよね。そうするとさらに強い者どうしが高め合えるので。そこはいろいろやってみてからじゃないと見えてこないところもあるんですが。ただ、やりたいっていう子は数名いるので、スタートはさせます。


Q:そこの最大目標は何になるんでしょうか?
A:全国からプロになりたい子がスクールに来ることで、必ず強くなれること。宇都宮に泊まりに来て、何ヶ月か見てほしいっていう子も見ていって、要は全日本(ナショナルチーム)みたいなものですね。いつでも走れる状況を提供してあげたい。


Q:真理選手自身も今後そこで走られる?
A:走れるときは走りながら見るので。走りながら自分にもプラスだし、他の若い選手にもプラスになるので、それは一番やりがいじゃないですけど、自分にとっても復帰も目指せるし、教えられるし、お互いにいい状況が作れるかと思います。


Q:今回、引退っていう結論に至らなかった理由はなんですか?
A:まだ走れるっていうのがあって、どこまでいけるのかなって。日本で42~43(歳)でっていうのはいないじゃないですか。それをやってみたいなというのがありまして。
 

2017年で選手を引退する西薗良太(ブリヂストンアンカーサイクリングチーム)

Q:30歳で引退という結論を出された西薗選手ですが、もともと目指していたところは?
A:プロコンとかで自分の器というか、選ばれればある程度しっかり走れる自信はあったと思うんですけど、ワイルドカードでグランツアーとか走るチームに入って、そういうレースでしっかり走れればなというビジョンはありました。


Q:さらに格上のチームに行くためにはやはりコネクションなどが求められるのでしょうか?
A:それを今、日本で代わりにやってるのがNIPPOだと思うんですけど、NIPPOに行った選手が確実に次のステップに進むっていうのを祈るしかないですね。レースとかに関しては、NIPPOに行った選手は、ほぼ僕が目指していたような段階のレースに出てますので。ただ、彼らも拠点で落ち着いて暮らしたりだとか、生活の基盤を整えるという意味では成功しているとは言い難い。だいたいみんな1年ずつの契約だし、腰を据えて何かをするためには、住環境なり自転車に取りくむための環境に投資するっていうことができていないとは思いますね。


Q:東京五輪も近いですが、日本人選手はどこまで活躍できると思いますか?
A:正直、ロードは一朝一夕にはリザルトは出ないので、リオの段階でリザルトが出なかった時点で、かなり厳しいと言わざるをえないでしょうね。


Q:自己分析することに長けている西薗選手ですが、他の人を分析するっていうのはどうなんでしょうか?
A:実際に世界トップレベルがどうなのかっていうのはいろんなアンテナを張って調べていて、そのギャップを埋めるにはどうすればいいかっていうのは常に取り組んできたかなと思います。


Q:一般ライダーまで落とし込まなくても、それを他の選手に伝えるようなことはできるんですかね?
A:かなり難しいですね。僕個人が出来ることは限られていて、例えば、イギリス車連のHPみると、コーチのページがちゃんとあるんですね。レベル1、2、3の証明書を取るにはどうすればいいかとかがあって、要するにコーチングの認定があるんですね。その認定を取れば、ある程度の指導を出来ることを連盟が保証していて、実際に教えているコーチたちがいて、地元のサイクリングクラブとかで経済が回っていて、っていう、そういうフレームワークみたいな、選手あがりでも、選手として強くなくてもコーチをやりたいっていう人たちが循環するようなシステムを構築しているんです。それは大きな組織じゃないとできない。JCFなりがそういうところをやってほしいという思いはあるんですけど、僕一人でそういったフレームワークまで生み出すのは難しいし、そういう状態で僕一人がコーチをやっても厳しい。もしかしたら若い選手にコーチングすることで手伝うっていうことはできるかもしれないですけど。それは経済的に回っているとは言い難いので。


Q:2014年に一回引退する前と、2015年に復帰してから、モチベーションの変化はありましたか?
A:2013年の時点で、これ以上のチームに行くのは厳しいなと思って、辞めたので。それよりは2015~2017年は、自分の力を着実に上げていくっていう、自分との闘いっていうところにかなりフォーカスを置きました。今回辞めるっていう決断ができたのも、自分の中でこの力がピークに近づいたっていう確信が持てた。2013年はまだ伸びてる途上で、かなり思うところがあって、まだいろんな力が伸ばせるのになと思っていたんです。この3年間で少しずつ発掘して行って、自分の中でベストの力はこれくらいだっていうのをようやく見えてきたというか。もちろん、これからいろんなことに取り組めば、まだ上がる部分はあると思うんですけど、それでもある程度の天井は見えてきたかなと、気持ち的には落ち着きました。

 

2017年で選手を引退する面手利輝(ブリヂストンアンカーサイクリングチーム)

Q:いきなり引退ということですが……。
A:そうですね。まだ若いんですけど(24歳)。自分は別府(史之)さんとか(新城)幸也さんみたいに、世界を舞台に自転車選手としてやっていくっていうのが自分にとっての自転車ロードレースだったんです。やっぱりそれをやっていくっていうのは簡単なことじゃないんですよね。やり始めるのも大変だけど、やり続けるのはもっと大変。狭き門でもあるので。世界への挑戦っていう自分にとっての自転車ロードレースをやってこれたことが自分にとって選手生活幸せだったなと思いますね。言い方は悪いですけど、それで国内限定で自転車を続けるっていう選択肢が自分の中にはなかったんですよ。


Q:Jプロツアーを走る選択肢は考えられなかった?
A:Jプロツアーを走るっていう考えでやっていなかったので。別府さんみたいになりたい、幸也さんみたいになりたい、そこしか見てなかったんです。そこに向かってやってて、それができなくなった時にそこしか見ていないので、その時点で自分にとっての自転車が終わりの時なんですよね。そこで自分の中の考えをシフトして、じゃあ国内で走ろうかなっていうのも、もちろん選手キャリアを長くしていく選択肢としてありますよね。そういう判断をすることもいいと思いますし、どっちがいいとか悪いとかいう問題じゃないんですけど、自分の中ではそれはなかった。自分にとっての自転車は世界への挑戦。自分が行きたいと思ったところに向かうための挑戦だったんですよね。


Q:別府さん、幸也さんしか達成していないところ、何が必要だと感じましたか?
A:運もそうですし、実力・強さもそうですし、この年代の時にこれだけの結果を出しておかなければいけないっていうのがあるんです。U23カテゴリーの時に、これくらい走れていないといけない、これぐらい結果を出していないといけない、エリート1年目の時にこれぐらい走れていないといけないっていうのがあって、それをずっと意識してやってきた。それを十分に満たせたことはなかったんですけど、今、世界でやれてるな、自分って思う時がときどきあって。年に何回かあるんですよね。世界で闘えているという実感が得られる時が。


Q:アンカーに1年在籍して、以前のフランスのアマチュアチームにいた時との違いはどう感じました?
A:やっぱりアンカーはプロチームですし、レーススケジュールもしっかりしてますし、士気もありますし、すごく恵まれた活動はできました。今年単年だけでなく、今までの6~7年、自分が世界に向けて挑戦できた時間っていうのはいい時間だったと思います。


Q:今後は何をされる予定ですか?
A:自分の選手としての経験を伝えていけたらと思います。若い選手って何をしたら、どうしたらいいか分からないんです。自分もそうだったんですけど、そういう時に学校なんてないので教えてはくれないんですよね。待っててもダメなんです。自分の場合、高校生の時から地元が同じ別府さんと一緒に走らせてもらって、そこでいろいろリアルな話を聞いてきたんですよ。実際に、そのことを吸収して実際に取り入れていくとやっぱりつながるというか強くなりますし。2015年、世界選手権は別府さんエリートカテゴリーで、自分がU23カテゴリーで一緒に行って、日本代表として一緒のレースに行けた時にやっとここまで来たなと。別府さんも「おお、ここまでよく頑張って来たね」って言ってくれたりして。そういうのうれしいですよね。


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