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ジャパンカップ2011特集

記念すべき節目の年となった第20回大会にはバッソ、クネゴ、クロイツィゲルといった世界のトッププロが参戦し、今年も宇都宮は大いに盛り上がった。しかし、最後に栄冠を勝ち取ったのは、オーストラリアから参戦した無名の若者だった…

今年もスター選手が参戦! 第20回ジャパンカップ

国内最高峰の自転車レース、ジャパンカップサイクルロードレース(UCIアジアツアー1・HC)が、今年も宇都宮で開催された。大震災の影響で招待を辞退するチームが続出。一時は開催すら危ぶまれていたが、最終的には海外からUCIプロチームとUCIコンチネンタルチームが合わせて8チーム参戦。例年通り、世界のトップ選手たちが日本勢と競い合う華やかな大会になった。 前日に行われた記者会見では、UCIプロチームに所属するダミアーノ・クネゴ(ランプレ・ISD)、イバン・バッソ(リクィガス・キャノンデール)、ロマン・クロイツィゲル(プロチームアスタナ)、グスタフエリック・ラーション(チームサクソバンク・サンガード)とともに、UCIコンチネンタルチームの代表として、オーストラリアから参戦したネイザン・ハース(ジェネシスウエルスアドバイザーズ)と米国のブラッド・ハフ(ジェリーベリー・ケンダ)が紹介された。 「ライバルはこのテーブルに座っている全員だ」と言うクネゴに対し、格下のハースは「(UCIプロチームの)4人が優勝候補だと思うよ」と謙遜したが、ジャパンカップの直前に地元オーストラリアで開催されたジャイコ・ヘラルド・サンツアーで総合優勝し、絶好調だった彼を推したのはハフだった。「ボクの隣に座っているこの男は、この3週間すごく調子がいい。是非注目してほしいよ」この時、誰がハフのこの言葉を信じただろうか…。

地元の熱い声援に応えたブリッツェンの激走!

前日のクリテリウムはあいにくの雨天となってしまったが、ファンの祈りを天が聞き届けたかのように、ジャパンカップ当日の朝には雨は上がっていた。地元出身で39歳の柿沼章(宇都宮ブリッツェン)は、今大会が引退レースだったが、彼の魂はまだ燃え尽きていなかった。柿沼はチームメートの初山翔とともに1周目のアタックに加わり、沿道につめかけた大勢の地元ファンを熱狂させたのだ。 今年の逃げは8選手。地元宇都宮ブリッツェンの柿沼と初山、イタリアのUCIコンチネンタルチーム、ダンジェロ&アンテヌッチ・NIPPOに所属する内間康平と小森亮平、シマノレーシングに所属する地元“宮っこ”の青柳憲輝、ジャパンナショナルチームの吉田隼人、そして外国勢では前日のクリテリウムで優勝したスプリンターのスティール・ボンホフ(ジェネシスウエルスアドバイザーズ)が唯一加わっていた。3周回目にかけられた最初の山岳賞は、ブリッツェンの初山が獲得。山頂では「次は柿沼だ!」と、盛り上がっていたが、6周回目をトップで駆け上がってきたのはシマノレーシングの青柳だった。同じ地元出身として、譲れない闘いが繰り広げられていた。 しかし最後の山岳賞がかかる9周回目には、すでにレースは動き出していた。最後の山岳賞はボンホフが獲得したが、古賀志林道の登坂で集団からラーションがアタックしてタイム差を縮め、逃げは下りで吸収されてしまった。

たった80メートルで失われた勝利

最終周回、大観衆が見守るゴール地点を最初に通過していったのは、2007年のジャパンカップで優勝したイタリアのマヌエーレ・モーリ(ランプレ・ISD)、新城幸也(ジャパンナショナルチーム)、そしてバッソが秘かに注目しろと言っていたクライマーのダミアーノ・カルーゾ(リクィガス・キャノンデール)の3人だった。この先頭集団にクネゴも追いついたが、古賀志林道の上り坂でモーリが満を持してアタックしたとき、付いていけたのは新城だけだった。山を下り終えた2人は、県道の直線ではスムーズに先頭交代を続け、田野町交差点で2人と後続のタイム差は17秒に開いていた。この2人が、最後の一騎打ちを演じるだろうと誰もが確信していた。 しかし、ゴールまで残り3kmで、状況は一変した。モーリは勝利を捨てるような新城の不可解な走りに混乱させられてしまったのだ。「彼は自分が先頭に出ると、疲れ切った顔でどんどんスピードを落とし、それならとボクがアタックして前に出ようとすると、途端に平然とした顔で後ろにぴったり付いてくるんだ。最後はその繰り返しでどんどん遅れてしまい、ボクは後ろに追いつかれるのを恐れながら走っていた。そしてたった“80メートル”(おそらく残り100メートル近くあっただろうが、彼は80メートルだったと感じていた)で捕まってしまった。最後はスプリントする脚も残っていなかった」最後の最後で後続のスプリンターたちに捕まってしまったモーリは6位に終わり、新城はトップ10にすら入れない結果に終わっている。

コンチネンタルチームがジャパンカップを初制覇!

モーリと新城をゴール目前で捕らえた小集団にはクネゴも加わっていたが、圧倒的な強さを見せてトップでフィニッシュラインを通過したのは、前日のクリテリウムと同じあざやかなオレンジ色のジャージだった。22歳のハースのスプリント力には、ベテランの西谷や佐野淳哉(ダンジェロ&アンテヌッチ・NIPPO)の力も及ばなかった。それはUCIコンチネンタルチームの選手が、ジャパンカップで初めて優勝した瞬間でもあった。「今日はあまりコンディションがよくないと感じていて、最初の上りからキツかった。チームメートに今日はダメかもしれないと言ったが、彼らはボクを守ってくれた。残り2周で先行されてしまったが、西谷が働いてその差を詰めてくれた。彼には本当に感謝している。でも、これはボクにとって人生で最大の勝利だ。夢がかなった大きなレースだ。ボクはジャイコ・ヘラルド・サンツアーで勝ったばかりだったけど、あれは南オーストラリアのローカルレースで、このレースの方が大きいレースだ。僕は本当に日本が好きだ。本当に素晴らしいレースだった。だからこう言いたい“日本大好きデス”」と、ハースは心から優勝を喜んでいた。彼は17歳の時にMTBで自転車競技を始めたが、フルタイムでロードを走るのは今年が初めてだった。子供の頃にDVDで観てあこがれていたクネゴやバッソと一緒に走っただけでなく、彼らを打ち負かしての優勝は、まさに夢の勝利だった。 オーストラリアの若い力に表彰台の中央はかっさらわれてしまったが、2位と3位を獲得できた日本勢にとっても、今年のジャパンカップはまた一歩前進した年になったと言えるだろう。2位になった西谷は「最後の直線では勝ったと思った。左からオレンジの選手が出てきてしまってがっくりしたが、最後まであきらめずに踏み続けて行こうと思った。その結果2位だったから、また来年につながるレースになった。今日は体調がよくなかったが、最後にランプレの選手が総攻撃をかけてくるのはわかっていた。それに脚を残しておこうと思ってしっかり待機していた。最後は不利な展開になって動かざるを得なくなったが、それも含めてレース。今日は悪くないレースだったんじゃないかと思う」と、ふり返っている。20回記念大会を日本人の優勝で飾ることはできなかったが、彼らの成長ぶりは会場を埋め尽くした大勢のファンが目撃者になったはずた。
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